絵の次は言葉
さて、進もうか、という気分になった。
今年は年明けからいろいろ動いていたので、周囲にどう見えていたかはわからないが、本人は停滞を感じていた。
外から動いているように見えた様々は、自分にとっては、過去数年に渡り自分が育んだ結果が形になっただけなので、進むというよりは、一瞬、時が止まるような感覚だった。
5月頭くらいまで、その一瞬、時が止まったような時間が過ぎた。
そしてその後、私は、自分の中に停滞を感じた。
体の動きは鈍った。
ふと、絵が上手くなりたいと思い、ほったらかしてあったデッサンの本に取り組み、自分なりの本の卒業制作で猫の絵を描いた。
なんでその本を買ったのか、美術館で買ったということは覚えていたが、理由はさっぱり思い出せなかった。
しかし、絵の描き方が少しわかるごとに、私はとんでもない喜びを感じた。
嬉しくて仕方なかった。
それで、自分が、絵が上手くなりたいという願いを持っていたことに気がついた。
本の課題だったので、感知していなかった問題にも取り組んでみた。
さまざまな発見とともに。
そして一夜明けて、私は思った。
さて、また進もうか。
どこへ?
わからない。笑
でも、何か、行き先を見つけたようである。
普段持たない時間、絵を描く時間を1時間くらい1週間ほど生活に組み込んだことで、何かが起きたらしい。
普段やらないことは、刺激を生む。
この1週間は、脳のリフレッシュ期間だったのかもしれない。
次にすることは、行き先を言葉にすること。
つまり、アウトカムを言葉にすること。
さて、ここからは、クリーンランゲージにお出まし頂こう。
行き先を言葉ではっきりさせ、より豊かなイメージを持たせること、そこまでの道のりを探求し、それが有効な道のりかどうか検証するのは、この技法のおはこである。
体はどうやら行き先を知っているらしいが、精神や心といった自分ひとりに関わる話ではない時、そこには必ず外界が存在する。
外界と自分を繋いでいるのは、言葉だ。
私の新しい次の行き先は、精神探求や精神性の成長でないことだけは、例によって明らかなので(人生の主題を精神性の向上においていないから。それは、私にとっては、単なる手段に過ぎない)、新しい行き先は、必ず、外側、つまり、現実の中にある。
そこには、他人もいれば、名前のあることやもの、言葉がなければ伝わらない数々のことがある。
さて、言葉の出番だ。