なぜ?

なぜ、人間の遺伝子は、心の痛みや怒りや悲しみや不安を、進化の過程で除外しなかったのだろう?


この疑問を私が抱いたのは20歳の時だった。
当時、遺伝子や遺伝について、面白おかしく書いてある遺伝学の学者が書いたエッセイにはまっていた。
体は遺伝子の乗り物に過ぎないというその話が、私は好きだった。

遺伝は優性遺伝で、遺伝子にとってよいものが残り続けると書いてあった。
ならば、それらはよいものなのか?と、私は不思議に思った。


私の現実は、普通にのんきな女子大生だった。
そういう話が好きそうな人も周りにはいなかったので、私は学校に行かない時間に、ひとりで考えた。
入る学部を間違えたんじゃないか?と時々思いながら。

どう考えても、好きなことが学べるのは、哲学部か心理学部だったんじゃないか?
たまに浮かんだそれらは、30半ばまで浮かび続けた。

しかし、私が大学時代に手に入れるべきものは、人間関係で、考えるのはひとりでもできたと、やがて理解した。
その時重要だったのは、私の肩書きや私が何者かを考えもしない、素の私を知る友達を作ることだったと理解した。

そもそも、本当に行きたかったなら、親が「人生のプランを考え直すには時間がいるだろう。音楽学部に行かせられない代わりに、一年、浪人してもいい」と提案してきた時に、もう少しまじめに考えたはずだ。
いくら、やけくそな反抗心の塊の高校生といえども。

それらを考えるのは、後からでよかったのだろう。


20歳当時、少し気になった私は、自分が手に入れられる範囲で古い書物を読み漁った。
そこに登場する人間達は、今と変わらないものもあったけれど、今とは違う姿もあった。

私は、古い古い時代の人々は、頭が悪いの?と思ったが、ギリシャの話を読んで、いや、そうでもない人たちもいると思った。
でも、やることが全体的に野蛮だし理不尽なことが多い、と思った。

調べてみると、人間のIQは、もう少し後の時代に急激な伸びをみせたことがわかった。

そうか、人間は、体型や体の作りはそんなに大きくはもう変わらないんだな、脳が進化してるんだな、と思った。
だから、昔の人々にはわからなかったいろんなことが、今はわかり、行動も違うんだな。


そして、それからさらに後の時期、パソコンが普通の家にも浸透していき、脳の記憶領域を増やしていくような働きをするのを見た。
同時に、人間の脳の進化には限界がある、頭がこれ以上大きくなると、生まれてこれないと書いてあるのを読んだ。


そして、私は、そうか、外側に機能を移すという進化、外側にもう一つ脳を作ることを、脳は思いついたんだな、と思った。

インターネットの進化を見続ける中で、私はすごいすごいと思った。
脳が飛躍的に進化していく世界、自分の脳は変わらないのに、アクセスできる知恵や記憶がいくらでも増えていく、と思った。

パソコンは感情がないので、動きもスムーズだ。
検閲のない地域では、これを表示したら、これを見たら、相手がどうなるか思いやることも一切せず、指示したとおりに、情報を表示する。

人間は、こうはいかない。
その人の世界観とことなる記憶には、アクセスできないことがある。
これは、辛い記憶ばかりでもない。
誰かが、私は不幸な人間だという世界観の中にいる時、幸せな体験は記憶には蘇りにくいことがある。
いわば、世界観の検閲が入る。


やがて、インターネットの中で、人間の感情が交流し始めたのを見た。
SNSだ。
SNSは、本体を飛び出して、さまざまな場所に手を伸ばしはじめた。

ニュースにつくコメントは、考えることを奪っていく気がした。
他人が考えてくれた意見の中から、共感できる意見を探せば、考えるプロセスは省略できそうな気がした。

やがて、嘘や混乱もそこには生まれ始めた。
感情をあおる数々の仕掛け。
しかも、直接的には罪悪感を持たないでできる仕組みだから、本当にその人が目の前にいたらそれを言えるか、それができるか疑問なものもたくさん生まれた。


なぜ、遺伝子は、怒りや悲しみ、不安の感情を残してきたのだろう?
そして、そこに共感する能力を育てたのだろう?

私は、また、疑問を抱いた。
インターネットの世界にも、脳は、やはりそれらの感情を持ちこんだからだ。
退化させるつもりがないのだ、むしろ、強めている感じすらする。


何か役に立つから残してきたはずなのだ。

何の役に立つのだろう?
役に立たない機能は残さない。
親知らずが生えない子供がたくさんいるように。
指の水かきが退化したように。
生存の役に立たないものは退化する。


私は考えに考え、考え続けて、まだ考えている。

それがあることで、素晴らしくいいことがあるはずなのに、それはどこにも書いてなくて、そして、考え続けている。