パズル

「少し視野が広すぎる。
少し視野を狭めて、全体ではなく狭めたフレームを作る。
フレームは同時に、全体の小さすぎないパーツでもある。
そのフレームひとつの中のパーツをまず考えて、それから隣のフレームを作って、またフレームの中のパーツを作って。。。
そしてお隣同士の関係を見て。
出来事を見て。
それを全部、描くか書くかしながら、目で見ながら、ついでにぶつぶつ言葉にしながら考える。」


デッサンの本を読み終わった私は、さて、このようにやってみよう、と決めた。
デッサンの本で覚えたことは、普段セッションでする手順とほとんど同じということに驚いた。
シンボリックモデリングは芸術だということがあるが、まさにそうねと思った。
絵を描くように、だ。
それはどうやら、創造の過程の話だったようである。
やっと本気で体で理解した。

ただし、今回、質問は使わない。
質問を使わずに、ただ、書くか描くかする。
私自身のフレームを使うのだ。


そう思うと胸がポカポカしたので、この発想は、あたり!である。
あくまでも、私にとって。

最近の私は、発想があたりか否かに、ワクワクという感覚を使用していない。
考えた時に胸がポカポカするかどうかが、私の基準だ。

私は、性格的に、しょっちゅう何かに驚いたり、何やらして、ワクワクは普通にするので、それは特別な感覚ではないため、使えない。

胸がポカポカは、それよりは頻度が少ないので、まだこちらが使える。


さて、思いついたそのやり方で、私は、「何だかわからないが抱えているらしい問題」というお題に取り組むことにした。

「浮かばない」という問題で、それはいつものように、答えが空から降ってきてはくれない、ただし、私は答えを知っていて、それは下から湧き起こる、ということだけは、調査済みである。
ついでに、私は、その解決を見たがってはおらず、見たがってはいないが見る必要があるという情報も持っている。

なぜ見たくないかというと、見ると、もう戻れないからだ、ということも。

そして、その問題は、私の人生全てに関わるが、今のところ、人生に何の影響も与えておらず、人生の中に問題としては存在していない。
ないもの、となっている。

そして、それを見ることは、おそらく問題は生まない。
ただ、それを見たら、私はもう戻れない。

という、情報の数々。

デッサンの本のワークでわかったこと。


そして最初に描いたフレームは、後から見るとパズルのピースのようだった。
そして、今日は1ピース描くだけで力つきた。

描きながら、始まった、と思った。
見始めた、と。

まだ戻れる。
やめるなら今だ。

しかし、好奇心が勝った。
恐れは常に、好奇心に負ける。
ついでに胸はポカポカしていて、不安の入り込む余地がない。


さて、パズルはいったい何ピースあるのだろう?
その全体像は、いったいどんな姿をしているのだろう?


なぜ、戻れなくなるのだろう?