翻訳

 昨日の続き。


それでも、私には、心の中に、「個人最優先」の外国が必要だったのだと思う。


英語圏だ。

Iから始まる文法の国。


日本語は、weの文法だ。

小さな島国、もともとは米作りがメインの国では、weの調和は非常に重要だったのだろう。

みんなで作業しなくちゃいけないから。



心の中に外国を作り出したここ数年、私の精神バランスは、かつてないほどいい。


私の心は、勉強しに外国に行く。

クリーンランゲージだ。


私の心は、自分と向き合いに外国にいく。

私がひとりで祈る時、祈りの言葉は英語だ。


猫を助けてもらったなりゆきで選んだ信仰は、ラテンな宗教。

私は聖書も英語で読む。

礼拝中は、日本語と英語を比べながら、話を聞いている。


賛美歌も、英語の詞の方が好きだ。

おそらく文字数の関係だとは思うが、なぜかは知らないが、日本語訳詞は、Iweになっていたり、自分と神さまの話が、みんなと神さまになる。

そして、set me freejoyの訳が抜ける。


キリスト教から、自由と解放、喜びを抜いた意図は、よくわからない。


人はどうでもいいが、そうなると、それは日本で、日本語ならば、私は、仏典や般若心経の訳の方が好きだ。

教会では言わないが、それらを訳した文章はとても綺麗な文章だ。

そうだねえ、と思うものもたくさんある。



言語と文化のバックグラウンドやコンセプトが違うものを、翻訳するのは、本当に難しい。



そして、この翻訳作業こそが、私の精神バランスを整えていると、私は、気がついた。


自分の持つ二つの要素を結びつけていく作業が、翻訳なのだろう。


そこには、国境がない。


そして、国境をなくしたことで、私は、自由になれたのだろう。


そして、自分がそうしたかったのは、私の大事な人たちが、みな日本にいたから、その人たちと一緒にいたかった、だから、日本を出るという選択肢を選べなかった、日本にいたいという願いが私の奥深くに存在していたということに、私はようやく気がついた。