土の器と不真面目なクオリティ
何の脈絡かわからないけれど。
多分、ここしばらくの流れがまとまったような感じかもだけど。
昨夜、自分が、自分にとってはずっとそうなので、大して意識していないことで、割とそこを評価されたり、実際に、それが自分を助けてきたものがあると気がついた。
考えてみたら?と、しばらく前に提案されていた。
ちゃらさだ。
それは、教会ですらそうだった。
私は、教会で2回ほど言われたことがある。
「どうか、不真面目なままでいてください。」
(笑)
言われずとも、元がそうなので、そうでしかいられないけれど。
私はちゃらいし、真面目でもない。
教会の人がそう言った理由は、私と違い、彼らはキリストと繋がる人が増えてほしい(教会に通う人ではなく、キリストと繋がる人。教会に通う人をクリスチャンというのではない。)という思いがあるからだ。
私はどうでもいい。
これは心底どうでもいい。
本人の好きにすればいいと思っているので、私がブログにジーザスの話を書くのは別の理由だ。
ただ、彼らがそう言った理由は、聞いて理解できた。
世間一般のクリスチャンのイメージは、真面目で根暗、というものだというのが、彼らが言ったことだった。
そうじゃない人は、希少だと。
ふうん、と、私は思った。
そして寝た。
そして、朝、どういう脈絡かはわからないが、過去、自分が運営したいくつかのブログの中で、一番人気があったブログのことを思い出した。
10年くらい前に書いていて、そのブログだけは、出版社の人が何人かフォローしてくれていた。
今まで私が書いた内容で、もう少し、本気で頑張ったら、本になった可能性が一番高かったのは、それだ。
実に、世にもちゃらい内容だった。
彼氏が欲しいなら、黒いブラジャーは捨てろというのが、そのブログのコンセプトだった。
ここ数年、私は、意識的に、ブログからちゃらさは封印した。
心の中での、ジーザスとのやりとりだけはちゃらいまま書いたが、他は封印した。
理由はあった。それについての詳細は、省略するが、早い話は、私はあほではないと、わかるようにする必要があったからだ。
そしてそれから、私は、「土の器」と「全て栄光は神のもの」というフレーズを思いだした。
そして、意味がわかった!と思った。
神の栄光が私のうちにあるならば、私はちゃらさ全開でいけばいい、と、私は理解した。
全てにおいて。
ルールにしばられないで。
ちょっと説明しておくと、土の器、は、聖書が語るまでもなく常識だが、人間は不完全な存在で、欠けたところがある土でできた器みたいなものというメタファー。
その欠けから、神さまの光がこぼれ出る、という概念定義。
全て栄光は神のもの、は、あなたが何をやろうと、それは全て神さまの功績であって、すごいのはあなたじゃない、神さまだというメタファー。
これは、承認欲求の暴走を防いでるんだと推測している。
キリスト教は、農耕民族を先祖に持つ人が多いアジアで生まれたのではなく、中東からヨーロッパにかけた、そもそも狩猟民族や遊牧民を先祖にもつ人達が集まっていた地域で生まれたのが影響してるような気がしている。
この一年半、アジアの国々と、それらの地域では、行動に差が見られたのは、報道されている。
Weを考えたか、Iを考えたかに、その違いがあるという分析が出ていた。
特に、マスクに対する考え方に大きな差が出たらしい。
そもそも、キリスト教は、そういうI、私、を優先し、そして、ラテンな人々の地域で生まれたもので、だから、聖書は書いてあることがやや厳しいのではないかと、私は思っている。
説明終わり。
というわけで、私は、私が土の器で、神の栄光が私のうちにあるならば、私はちゃらさ全開でいかねばならないと気がついた。
人が私に注目するのが、私がちゃらいことをやっている時だからだ。
土の器から、光が漏れているならば、その人は、きらきらしていなければおかしい。
キラキラした光の質はいろいろあるだろうが、私については、ちゃらいはずだと、私は思った。
ちゃらいというか、ノリが軽いというか、まあ、ちゃらい、かな。
遊んでいる時が、一番楽しいので。私。
「ら」を優先するならば、ノリはちゃらくいけ、それが、自分を手放すということだと、私は思った。
まともにやろうとするな、と思った。
そして同時に、自分は根っから不真面目だと、私が気づいた話が最近ひとつあったので、それについては、別に書く。