不思議なオトウトの話

 不思議な話というのはあるもので。


私は二人姉妹の長女だが、もう一人、7つ年下の弟か妹がいた可能性があった。

彼か彼女かは、生まれてはこなかった。


私がそのことを知ったのは、もう三十代になった後だった。

10年ちょっと前。


その頃、私は、セッションを仕事にするために、手当たり次第、セッションやコーチング、占いを受けまくっていた。


私はその頃、セッションそのものはできるようになっていたが、オープニングとクロージングをリサーチし、話術を盗むためだった。

100人以上の人に会った。



私には特に聞きたいこともなかったので、いつもお題は人生全般とか、この世に生まれた理由とかだった。

その中で、占い師カテゴリーに入る人々が、何度か同じことを言った。

手相見は全員言った。


「あなたには、まだ兄弟がいる。

その子が忘れないでと言っている。」


やがて、ある占い師が言った。

お母さんに聞いてごらん。



私は、冗談半分で、母に尋ねた。

笑うと思った母は、ぽつりと、「お母さんはどうすればいいの?」と言った。


私は驚きを隠して冷静をよそおい、「忘れないでいてくれれば、それでいいらしいよ」と言った。


母は、そう、と言って、私はそれ以上何も言えず、話は終わった。


母には悲しいことがたくさんあったのだ、と、なんとなく思った。



その頃私は、京都に住んでいた。

それで、母とその話をした後、当時私が好きだった千体の観音像が並んでいるところに行き、私は水子供養をしてもらった。


なんとなく、そうした方がいいと思ったからだ。

姉がしていけないということはあるまい。


神さまのところに行きなさい、また、いつか会おう、お姉ちゃんにわかるようにしてね、と、私は思った。


生まれてこなかったのは、オトウトだと、私はなんとなく思った。

オトウトが生まれてこなかった後、しばらくしてやってきた実家の猫がオスだったからだ。


その猫は、猫嫌いの母によくなつき、よその猫は触れない母も、その猫は可愛がった。

猫と母は、ずっとくっついていた。

私と妹は、猫と走り回って遊んだ。


母の気持ちを、その当時の私は気づけなかった。



寺院に行ってそれから、私は家でも、一人でお葬式をした。

アメージンググレースをかけて、私は、泣いた。


仏式、キリスト式、ごちゃ混ぜである。

どこの神さまでもよかったが、私自身の祈りはアメージンググレースだったかもしれない。


私がクリスチャンになるのは、それから、だいぶ先の話だ。


そして、やがて、私はオトウトを忘れた。



時が流れ、教会に通いだした後、礼拝後に、7つ年下の女の子(でもないが女の子)が言った。


「不思議なんだけど、Yさんと初めて会った時から、お姉ちゃんって思う。やたらと、お姉ちゃんって浮かぶ。こんなこと、今までない。」


私は、へえ!と笑った。



帰り道、駅まで歩きながら、私は先に書いた話を思い出した。


ああ、ずっとなのか、その時だけかはわからないが、お姉ちゃんと呼んだのはオトウトだと思った。


そして、オトウトは、神さまのところにちゃんと行ったと安心した。

そして、同時に、今にいる。


そして、生まれてこなかったけど、会うこともなかったけど、私にはオトウトがいると思った。



なんとも不思議な感覚だが、私の心はその出来事のあと、深いところが救われた。


人が救われるのは、理路整然とした理屈ではないことも、またある。



これらは、私が頭の中で紡ぎあげた物語に過ぎない。

おそらく全部、たまたまだ。


けれど、事実はどうでもいい。


不思議な話、のままでいい。



そういうことも、世にはある。