親子問題を考える時の、主語は「私」

 

親の言うことを聞くのはやめようと決めた日のことを、よく覚えている。


高校生だった。


当時、(今もたまにそういう時がある)、私の目に、母は幸せな人に見えなかった。

人生に不満が多い人に見えていた。


ある日、私は、突然、冷静に思った。


あかん、この人の言うことを聞いていたら、幸せにはなれない。

だめだ、言うことを聞いちゃいけない。

自分で考えよう。



あの日の自分の気づきは、今でも、ほめてやりたい。

そして、わかりやすく、あまり幸せそうには見えなかった母に感謝する。


母が幸せそうだろうが、そうでなかろうが、そもそも、他人の人生なのだから、幸せになる方法は違うのだから。



さて最近。


私は、再び、母の価値観に巻き込まれそうになり、今度は、母本人にはっきりと自分の考えを告げた。


「私は、お母さんが、田舎のおばあちゃん(母の母)に感謝するほどは、お母さんには感謝してないよ。普通には感謝してる。だって、お母さんの感謝は、私から見ると異常だもん」と。


これには事情がある。


祖母は、時代もあって、ものすごく苦労をして母たちを育てた。

母姉妹の、祖母への感謝の仕方は常軌を逸しているように、私には見えるくらい、彼らの祖母への尽くし方はすごい。


自分を犠牲にすることをいとわない。


私は、そこに、長い長い間、違和感を感じ続けている。


傍目には、親孝行でいいのかもしれないが、親のために、子供が、自分を犠牲にしてまで尽くすって、異常じゃない?と、感じ続けている。


果たして、祖母が、それを望んでいるかすら疑問だ。

自分を大事にしろと、祖母は教えなかったのか?


なんじゃ、こりゃ?と。

そう、私は長らく思っていたが、自分には関係がなかったので、適当に合わしてきた。



しかし時は流れ、母も私も年を重ね、自分はすでに、自分が高校生の時の母の年齢を抜いた。

母が私の年齢の頃、私は、一度目の結婚をしている。


そして、老いた親が目の前に現れた時、その老いた親と娘との関係性で、私の身内に存在するモデルは、親に尽くしまくる娘モデルだけしかない。



しかし、母自身からは、「この先、仕事は絶対にやめてはいけない」と言われている。


しかし、母の中にあるモデルは、違う。

娘が親を気にかけ続けるモデルしか、母は知らない。



そして、母は、祖母とは違う理由で、私を育てるのにはそれなりに苦労したはずだ。


同時に、私側にも、自分の中で解決済みではあるが、はっきり恨みカテゴリーに入る感情を抱えていた時期がある。


関係性は、今は、円満だ。

実家を気にかける時間は増えている。



さあ、どうする?と思っていた時。



私は夢を見た。


そして、びっくりした。


全て忘れた(許した)はずの出来事とそれに伴う感情が、夢の中で、爆発していたからだ。


私は、最悪の気分で目覚めた。

はっきり悪夢。


そして、私は、この二十年、自分がした作業を思い出した。

私は、過去を変えた。


けれど、それはパラレルに、今もどこかには存在していて、私が気を抜けば、いつでも私は傷ついている自分から繋がる現在に舞い戻れると、私は理解した。


まっぴらごめんだ。



そして、私は決めた。


ここから先も、自分の人生中心でいこうと。

私がやりたいだけは関わるし、必要なところは手は貸すけれど、親に尽くすのはやらんと。


そんなことは、誰も望まないだろう。



おそらくは、ここから、自分の人生にとって一番大事な二十年になると、私は思った。

もしも、人がこの世に生まれる意味が本当にあるのなら、今からの二十年で自分がやることがその意味だ。


それを、親のためにと、甘ったるい自己満足で手放したら、私は、自分の選択を許さないだろうと思った。


何をやってきた、二十年?という話になる。


私の人生の責任は、私にある。

もはや親にはない。

あるわけがない。


親に責任があるのは、大人になるまでだけの話だ。

殺さないで大人にしてくれただけで、十分だ。


この場合、悪夢は、それまでの期間に起きた話で、再現性はない。

覚えていて愉快じゃない話は、忘れてしまうに限る。


しかし、必要以上に、感情的に、彼らの世界観に近づけば、一族が持つ世界観なので、いともたやすく巻き込まれる。

集団が持つ世界観はパワフルだ。




親子のドラマ、リバイバル。


まっぴらごめん。



母は変わらない。

他人に変わることを望むのは、まったくもって時間の無駄だ。



私が、もう一皮剥けるしかない。



さ。質問してみましょ。

日本語、英語、二本立て。


「とまあ、これら全てがこのようである時、私は、何が起きればいい?」


“And, when everything is like that,

What would I like to have happen?”



答えは、英語でやってきた。


I need to create the new model which I didn’t see before.

It’s necessary to be new domain and dimension for this model apart from the model I used to make use of.


Creating New model. It’s my outcome.


新しいモデルを生み出すことが私のアウトカム。




やはり、自己中発言は、英語の方が、罪悪感なくできて出しやすい。


日本語でやる時は、主語の「私」をお忘れなく。

親子問題を考える時は、特にそう。