痛みなき世界

私には、今、世界の向かう方向のベクトルが、パラレルに、いくつか存在している感じがしている。

多様な世界というのはこういうことも含むんだろうなという感じ。


目指す方向も1つではない感じがする。


この一年半、それを特に強く感じた。

流行病に対して感じていることや、それぞれの理解が、人によって、本当に違ったからだ。


そこに存在したのは、変異はあっても同じウイルスだが、それぞれが紡ぎあげた物語は、まるで違う話のようだった。


その物語は、ほとんどの場合、それぞれが見たか聞いた読んだかした情報を元に作られていた。


そして、私が、何が一番、興味深かったかというと、その情報が、人により、まるで違ったことだった。

言い換えるなら、人によって、どんな情報を集めようとしたかに、あまりにも差があったことだった。


そこには、それぞれの普段の価値観も反映されているだろうが、何を使って、情報を集めたかでも違いは出ている感じがした。



そしてここからさらに、同じ地球上に住んでいるけれど、目に入るものが、人により、ものすごく違うことに、どんどんなっていく感じがする。


その人が「求めている情報」が、その人のもとに集まり、その人の記憶には残る。


私が生きている間中くらいは、世界そのものが流動的だろうから、本人の世界観が、さらに強く反映されるようになる感じがする。


現実に、わかりやすい例としても、今すでに、目に入るものは、人によってかなり違うことが起きている。

その例は、日常的に目にする映像。


私が子供の頃、日常的な映像は、テレビだった。

そのチャンネル数は限られていた。


例えば土曜日の夜、子供たちの多くが見ていたものは、2種類しかなかった。

ひょうきん族かドリフか、選択肢はそのどちらかだ。

途中からは、クラスのほとんどが、ひょうきん族を見ていた。


今、YouTubeTikTokがそこに加わり、同じ時間にみなが同じものを見るのではなくなった。

NetflixHuluAmazonなどもある。

ものすごい数の映像が、日常の中にある。


みな見ているものは、それぞれの好みで、ばらばらだ。

お笑いひとつとっても、バラバラだ。


そして、離れた場所で同じ時間に同じ映像を見る体験は減った。


そんな感じ。



ニュースにしても、同じ素材を扱っていても、報道する視点が様々で、同じニュースを見ても、報道のされ方はバラバラだ。


報道内容が共通しているのは、地震速報と天気予報、株価と言った数字で表されるもなくらいなものかもしれない。


そこに加えて、海外メディアのニュースが今は簡単に見れる。

日本国内の話題についても、場所が違うところからの視点も知ることができる。


そんな中。



どうやら、自分が見ている世界は、こういう方向性にある世界なんだろうなと感じているものがある。


それは、痛みなき世界、笑顔多き世界、だ。



特に、痛みなき世界を、私は、今は強く感じている。

痛みを速やかに取り去る世界。


何かを変えていく、何かを成し遂げていく、何かを生み出していくそのプロセスに発生する痛み、味わう痛みを、できるだけ少なくするようなやり方を模索する方向性にある世界。



少し前から、「痛みなき世界」というフレーズが頭に浮かんでいたのだが、この秋の不調と、先日の毛虫の話で、私はそれを確信した。


自分が選んだ世界は、痛みなき世界だと。

恐怖なき世界でもいい。


正確には、痛みは速やかに取り去る世界、可能な限り最速で癒しが機能する世界。

痛みから学ぼうとしない世界。

恐怖を持続させようとしない世界。



その代わりに、喜びや笑いを、痛みや恐怖がしていた機能に使おうという世界。


同じ現実を引き起こす、同じ学びを得て成長するのに、痛みや恐怖ではなく、喜びや笑いを使おうという世界。


痛みや恐怖を否定するものではない。

それらは、自然な反応だ。


だがしかし、それらを長く持続させることがよい結果につながることは、非常に少ない。


多くの人の心は、そんなに強くない。

どんどんギスギスする。

そして、痛みや恐怖は、不信も生む。


痛みや恐怖に耐えうる強い心を育てるよりも、痛みや恐怖を速やかに取り去る努力の方が、多くの場合は、いい効果を生むんじゃないかなと思う。



それを、心の努力だけで成し遂げる世界ではなく、痛みや恐怖が速やかに取り去ることのできる現実が実現される世界に、私は、投票したのだと思う。



私が生きている間に、それが達成されることはないだろうなあと思う。


けれど、いつか、未来で、地球上に、そういう世界が訪れること、そこを信じてみる気持ちになったのだと思う。


そして書いて気がついたけれど、その世界が、私にとっての、地上の天国、なのかもしれない。


私が、戦争が嫌いなのも、そこには、痛みや恐怖が絶え間なく存在するからだとも気がついた。

そこで生まれる痛みや恐怖を、私の祖父は、死ぬまで引きずり、娘もその影響を受け、そして、孫の私にまで影響した。


痛みなき世界。

恐怖なき世界。

速やかに、それらは取り去られ、癒される世界。


笑いと喜びが、痛みや恐怖の代わりをする世界。



そういう方向を目指す世界を、私は、選らんだのだろうと思う。

そのプロセスも、笑いや喜びに満ちていることを祈りたいなと思う。


生きている間には、自分は見ることはないだろうから、そういうことは、祈っておこう!

祈りは時空を超えるから。



とまあ、なんか大きな話を考えた後、ちまちまとした仕事の作業に、手をつけた10月のはじまり。


頭の中と現実のこの乖離(笑)


今のところ、私の痛みなき世界は、医者選びの際にのみ、発揮されているようだ。