寝坊して礼拝を休んだので、ブログで礼拝します。
本日は日曜日だが、寝坊して、礼拝を休んだので、代わりに書いておこう。
あなたは素晴らしい〜。
(私が仕事柄と信仰は個人の自由だという考えもあり、当初書くつもりがなかったジーザスネタを、割としょっちゅうブログに書いている理由を知りたい方は、過去ブログのどこかを参照してください。黄色いバスのためなら、私はなんでもやる。)
こういう時、私は、ジーザスが、「ゆっくりお眠り。疲れを癒やしてあげようね」と働いてくれたと考える。
気持ちいい睡眠をありがとう。
なぜ、ジーザスが働く、workingと考えるかというと。
それは、私が好きなフレーズの関係だ。
Jesus is alive.
He is working.
ジーザスは生きてる。
ジーザスは、働いている。
日本語だと、
神のみわざとか、神のめぐみとか、ちょっと私には堅苦しくて、とても寝坊を、「ああ、神のみわざだわ!」とは思えないのだがThe Work of Jesusならば、ああ、スーパーワーク!ジーザス!と思えるのだ。
キリストとジーザスは、キャラが違う感じがする。おんなじだけど、言葉の力って偉大。
私は、Jesus、ジーザスを採用している。
同じ教会の人は、たまに、笑う。
「Yさんは、ジーザスを信じているんだね」と。
みんなは、キリスト。
一緒じゃなくていいんだよ、同じ言葉でなくていいんだよと、私を受け入れてくれている。
それでも、きっと、同じものを感じているのだろうから。
私が信じているものは言葉じゃない。
信じているものは、ただ、単なる光だ。
神さまは光に過ぎない。
言葉は全て、人が語ったものだ。
神さまは目では見えない。
そして、毎日、いつでも、一緒に生きてる。
それは、クリスチャンでなかった、幼稚園児を神社仏閣に引き摺り回して頭を下げることを教えた祖父が、私に叩き込んだことと何ら変わらない。
神さんはな、一緒に生きてるんや。
いっつもあんたを見てる。
つまり、Jesus is alive.
おじいちゃんの神さんと、私の神様は名前は違うけど、やっぱり、私にとっても、ジーザスは、神さん。
「疲れてんねんな。ゆっくり寝たらいいわ。今日は安息日やし、あんた、昼からは仕事やろ。」
ジーザスならこうする。
なぜなら、得意技は、奇跡だけではないから。
ジーザスの得意技のひとつは、癒やしだ。
しかも仕事が早い。
そういう意味では、私にとって、目指す場所でもある。
痛みは最短最速で。
自分の元に来る心が救われたいと願う人の心の痛みを可能な限り最短で。
日本語のクリーンな質問を、どこまで、練ることができるか。
私が翻訳にこだわり続けるのは、それは、The Work of Jesusを、少しでも地上にと願う、私の心の現れでもある。
ジーザスは、救う人の信仰など気にしない。
ジーザスは、誰でも助けた。
その人が願うなら。
この適当なめんどくさがりやに、果てしない作業を続けさせている存在の力は偉大だ。
何が私を動かしているか、たまに、もうわからない時がある。
そして、前に書いた通り、その作業を通して、ジーザスは、私の深いところを癒やしてる。
まさにThe Work of God.
こんなところで、よろしいでしょうか?
来週は、みんなと歌いたい。
(礼拝にはピアノ弾いて、歌うために行ってる。笑)
あと、お祈り。
そうだ、主は讃えてみたが、お祈りを忘れていた。
今日はこれにしよう。
神さま。
今朝の私と同じように疲れている人に、あなたの癒やしを与えてください。
ジーザスの名において。
(In the name of Jesus Christ)
アーメン。