ジーザスのため息

よう仕組まれた話やのう...


季節の関係で、朝起きれなかった9月の一か月、私は教会の礼拝を休んだ。

明日は起きれたら、久々に、オンラインではなく教会に行ってみるかもしれない。


それで気がついた。


私は、月に2回、英語で世界史を学ぶ授業に出ているが、この一か月、そのテーマは、ユダヤ人の始まりだった。

旧約聖書に描かれている時代だ。


テキストには、the Bibleという単語が、これでもかというくらい登場し、旧約聖書聖書の価値観が登場した。


今日に至っては、クラスメイトのおじさまが、いきなりマタイの福音書の一節から「地の塩」の話をし始めたので、私は、授業中、マタイの福音書を読み、「地の塩、世の光」というフレーズを覚えた。


まるで、世の中は、ジーザスの回しもんだらけみたいだと、私は思った。


または、教会のおっちゃんが、「Yさんも、もう少し聖書を読んでくれたらねえ」と言ったつぶやきを、ホーリースピリットが聞きつけたか何かだ。


ともかく、おやすみしていた一か月、何がなんだか、the Bibleは、読めと主張していた。


ちっ。休ませろや。


と言ったら、この話を聞いた別の人が、「あなた、それは、あなたがしんどいのがわかってる神さまが、ちゃんとそばにいるよ、がんばれがんばれと励ましてくれたのよ」と言って笑った。


そしてそれからさらに、「あなた、前にも、ワクチンの副反応で点滴を受けたときに、なんかぶつぶつ文句言ってたわね」と笑った。


「わかりにくいねん!」と、私は言い、その人(仏教徒)は、「むちゃくちゃわかりやすいわよ。神さまも大変ねえ」と大笑いした。


「がんばれと直接励まされるの、あなた、好きじゃないでしょうよ。だから、合わせてくれてるのよ。あなたが好きなことを通じて。ちゃんとそばにいて、あなたを元気にしたいわけだから。」


そう、仏教徒のその人は、丁寧に説明してくれた。


最初からであるが、私のクリスチャン生活は、仏教徒およびに無神論者の皆様方から、大いにサポートされている。


珍しいパターンであろう(笑)


祈り案件も、これを祈れ、あれを祈れと回してくる。



ともかくそれを聞いて、私にはまた、「信仰の薄いものよ...」というジーザスのため息が聞こえた。


私は、ありがとうとは思わなかったが、胸はぽかぽかした。


アーメン。