全ての道はローマに通ず

 昨日、私は、お知り合いの妙齢のご婦人とお茶を飲んでいた。


ご婦人いわく、いたく機嫌が悪いということだった。

理由は、ご婦人の配偶者ということだった。


私がご婦人の家に到着した瞬間、ご婦人の配偶者は外出された。

ああ、そういうことか、逃げたのね、と私は心の中で密かにクスッと笑った。


その後、その日の朝からのご婦人夫婦のやりとりを、ご婦人は延々と語った。

あまり怒ると血圧が上がる、免疫も下がる、体に障る、感情よりも体調が大事だ、これはいかんと思った私は、話をすり替えた。


なんでも傾聴し、共感すりゃいいというもんでもない。

ポキンと折った方がいい話の腰もある。



それで私は、ご婦人が好きな政治の話をした。

しかし市長の話をしていたはずが、ご婦人は、「あの人は」と、いつの間にか、配偶者の話にかなり無理やりすり替えて、再び愚痴を言いはじめた。


それから私は、また別の話をした。

これなら配偶者の話には辿り着かんだろうというくらい、日常と離れた話だった。


しかしご婦人は、「そうなのよ、あの人は」とまた配偶者の話に、かなり強引に引っ張った。

そうなのよ、ではなかった。

私は、聖書の話をしていたからである。


聖書の話は、非日常感満載なので、時に割と便利なのだが、ご婦人の配偶者の話には勝てなかった。

私は、鉄板ネタの、「ガダラの豚、豚インフルエンザ説」を突っ込んだにも関わらず。


話そのものはウケたが、ご婦人の引きには勝てなかった。

古代中東むかしばなしは、ひとときの笑いと平穏を生み出すことはできたが、令和日本今日の朝の記憶からご婦人を引き離せなかった。



それから、何回か似たようなことが繰り返され、私はついに、大笑いした。


「全ての道はローマに通ず」と言いながら。


何の話をしても、全て、配偶者にたどりつく。

全ての道はローマに通ずみたい、と。


それを聞いたご婦人も、大笑いをした。


そのあと、私は、ご婦人が話を配偶者のことにすり替えるたびに、「全ての道はローマに通ず」と笑い続けた。


そして私は懲りずに、また違う話にすり替え続け、ご婦人が話を配偶者に引き戻し、そして「全ての道はローマに通ず」と二人で笑い続けた。


これを天丼という。

笑いを生む技法のひとつだ。

一人ではできない。

二人以上の人が必要だ。

同じパターンを繰り返すことで、笑いが増幅される。


この日の午後、ご婦人の怒りを使い、私とご婦人は、天丼をして遊んだ。

ご婦人は、私の遊びに巻き込まれてしまい、ケラケラとよく笑った。


怒るのは、一人で簡単にできるけれど、笑うのは、自分以外の人がいた方が簡単だ。



やがてご婦人宅を辞する時間になり、私は、ポストイットに、「全ての思考はローマに通ず」と書いて、どうぞ、とご婦人に渡した。


この分だと、しばらく、ご婦人は、配偶者のことを考えるだろうと思ったからだ。

体に障るとよくないから。

ツッコミを置いて帰ろうと思ったのだ。

笑えるように。



ユーモアが好きなご婦人は、「ありがとう。ひとりで楽しむわ」といたずらそうな顔で言った。



ちなみに、帰り際、私は、ご婦人に、この話をブログに書いていいか確認した。


ご婦人はニヤッと笑って、「どうぞ」と言った。