知り合いのご婦人

私が時々会ってお話しする近所のお知り合いに、妙齢のご婦人がいる。

ご婦人は、私の料理の師匠であるが、いまや、料理より、話をしている時間の方が長いかもしれない。


生まれも育ちも都会っ子のご婦人は、年齢には不釣り合いなくらいかっこいい、レッドとブラックの車椅子を使っている。

彼女は、もう何十年も、車椅子ユーザーだ。


流行病のこともあり、去年と今年は、合わせて3回くらいしか外には出ていない。


私が、外出自粛がしんどいとかは、口が裂けても言えなかったのには、このご婦人のような人たちが、日本全国、いえ、世界中にいるのを知っていたからでもある。



このご婦人には、自分のことは好きに書いていいと言われている。



ちなみに、「車椅子の人」という表現はおかしく、正しくは、「車椅子を使っている人」だそうだ。


言わないでしょ、車や自転車に乗っている人を見て、車の人、自転車の人とは、と、ご婦人が言うのを聞いて、なるほどなあと思った。



「そういえば、私は、先日、コンビニで、むちゃくちゃかっこいいデザインの車椅子を使っている人を見た。

ブラック一色でスマートでおしゃれ。

そして、かっこいいなあと見ていたら、コンビニを出たその人は、ジープに乗り移ったので、やっぱりかっこいいなあと私は思った。」


そういう話をご婦人にしたら、「外車ね。外車はかっこいいのよ。日本は、意識が遅れていて、いまだ、障害者を〈助けてあげる〉という意識が強いから、そういうかっこいいのは中々出てこない」と、ご婦人は言った。


〈障害は、個人にあるのではなく、環境にある〉が、ご婦人の口癖だ。

そして、この考え方はナショナルスタンダードなのだが、日本は違うとも。

日本の常識は世界の非常識というフレーズと一緒に。


たしかに、それはナショナルスタンダードだ。





そうは言いましてもね、と、私も健常者の立場から、好きに意見を言う。

「手助けしようとして嫌な言葉を返してくる障害者の人は少なからずいる。これはもう、障害あるなしに関わらず、性格が悪い人は、性格が悪い」と、私は笑ったりする。


そして、そもそも、障害者に、特別な困難を背負って生きる人格者みたいなイメージをつけたがったり、それを求める何かがおかしいと言った。


それから、障害者でひとくくりにするのもおかしい。

いい人はいい人だし、嫌なやつは嫌なやつだ。



ご婦人は、「そりゃ、そうよね」と大きな声で面白そうに笑った。



ご婦人いわく、私のいいところは、誰のことも、対等に見るところなのだそうだ。


「だって、私は、かわいそうだと思ったことがないからですよ。障害者と健常者の人生の何が違うか、私にはわからないから。

大変だなあとは思うけど、誰の人生も大変で、だから、みんなで助け合う必要があるだけで。」


これには、祖父の影響もある。

私の祖父は、私が生まれた時から、左半身が不自由な障害者だったが、私は、祖父が障害者だと気づかなかった。

祖父は心臓も悪かったが、誰よりも楽しそうに生きていたからだ。

祖父の人生は、私には、誰よりも、自由に見えていた。


そして、未だに、私は、祖父より幸せそうに生きる人を見たことがない。

いつもニコニコ笑っていた。

そして、祖父の周りにいる人は、なぜだか、笑いだしてしまうのだった。

その死とお葬式ですら、今でもそれが語られる時には、私と妹は、お腹を抱えて笑ってしまう。


(私は、できることなら、自分が死ぬ時も、みなに笑いを残して死にたい。)


まあ、共生ですね、誰とでもそうであるように、互いにめんどくさいなあと思う自由は残してと、私は言った。


ですので、私は、私に失礼な対応をする障害者の人にはやはり普通に「なんじゃ、あんた?!」とか「どういうこと?!」と普通に思います、と。


まず、あの、近所の遊歩道を爆走する電動車椅子!と言った。


ご婦人は、あははと笑った。

「それは改造車ね。バイクの事故で、車椅子ユーザーになった人が、たまにやるのよ。違法だけどね。」


私は、それを聞いて、ゲラゲラ笑った。