こんな私でさえも。
クリスチャンの人がよく言う自己表現の一つに、「こんな私」がある。
歌の歌詞にもなってる。
用法としては、「こんな私でも、神さまは私を愛してくれる(だから神さまは素晴らしい)」みたいな感じ。
私は、それを聞くたびに、理論崩壊だな感じていた。
大いなる矛盾。
けれど、用法のように語る人は、だいたい満足げな顔を浮かべているように見えたので、私は、これまで言うのを差し控えていた。
土台、信仰とは自己満足があればそれで十分なものであろう。
どう考えようが、それが実害をもたらす行動として表されない限り、たいしたことはないのだ。
なぜに理論崩壊かといえば。
キリスト教における神さまは、クリエイター(創造主)であり、この世にあるものは全て、神さまが作ったものだ。
もちろん人間も。
加えて、キリスト教では、神さまを褒めろという押しが強い。
人間は、神さまの作品だ。
クリエイターは大体の場合、自分自身を褒められるよりは、作ったものを褒められる方が嬉しいはずだと、自身もまたクリエイターの端くれである私は思う。
作品は、自身の分身や子供みたいなものだ。
だから、クリエイター自身は褒めて、作品をけなすその行為は、クリエイターを褒めろという押しと矛盾すると、私は思う。
また、神さまを褒めて人をけなすのも、神さまをけなすのと同じような気がしている。
作品をけなされて、気分のいいクリエイターはいるまいと思われる。
他人から見てどんな駄作でも、作った本人には、自分の作品だ。
それから、神さまが、こんな私を愛してくれるのではなく、単に自己評価が低いのと、自己肯定感が低いだけの話にした方が、話はシンプルで、こんな私からの脱却は容易だと、仕事柄もあり、私は思う。
自分自身の評価が、外の何かと紐付けされると、話はややこしくなる。
さらに、こんな私と一度言うごとに、「こんな私」は強化される。
その人が口にする言葉に、誰が影響されるかといえば、その人本人だ。
私の仕事的な立場としては、すぐに言うのをやめていただきたい表現ではある。
その発言は、なんの幸せも生まないと、私には断言できるから。
(神さまの愛を感じるという自己満足にはつながるかもしれない。ただ、人生の中で、次のステップに進む時に、自己評価と自己肯定感の低さは、確実に足を引っ張ると推測される。)
別に、こんな私でなくとも、神さまはその人を愛すだろうと、私には思われた。
誰のことも平等に。
私個人の見解としては、無条件に愛することができるから、その存在を人ではなく神と呼ぶのであり、そんなことは、きっと神さま的にはすごくもなんともない。
私にとって、神さまを褒めるという言葉の概念は、自分の幸せや喜びのために最大限の努力をし、他人の幸せや喜びのために手を貸す最大限の努力をすることだ。
そして、うまくいえないのだが、神さまが人を愛してくれるのは当たり前のことで、見捨てないのも当たり前のことで、いちいち、それを確認して、すごいすごいという意味が、私にはよくわからないのだと、今、この瞬間、気がついた。
ありがとう!ではあるけれど。
あれ?
あれ?
あれれ〜?
と思ったが、この先は書かない。
続きはご想像におまかせします。