太古の昔に生まれた思考法
私の考えでは、人類が、太古の昔からロングランで採用してきた思考法のひとつが、信仰という心と体の使い方だ。
信じる力を使う思考法。
教会に通い出してから、さらにそう思うようになった。
その起きる効果があまりにも人によって違うからだ。
これは、思考の力だと、私は思うようになった。
信じる力と、刷り込みの力。
それが、体と心に起こすこと。
私が信じることにしたのはキリスト教なので、この場合、刷り込みに使われているのは聖書だ。
長きに渡るロングセラー。
私がこれを採用したのは、その安全性が確認できていたからだ。
この書物が少なくとも現在までのところ、残ってきたというところ。
時代が変わっても長期的に有効な発想が含まれていることが、書かれているところ。
あとは、おそらくは、長きに渡り、私が学んできたことの多くのたたき台が、そこにあるだろうと思ったこと。
(これはそうだった。ほとんど書いてあった。)
多分、一般的に人が信仰を求める理由と、私が固定の信仰を求めた理由はだいぶ違う。
少なくとも、当時、私は魂の救いを求めておらず、今も、それは信仰を持つメインの理由ではない。
いまだに、キリスト教でいうところの救いが、実際何のことをさしているのかが、私にはよくわからない。
何をもって、人は救われているというのだろう?
(これは洗礼を受けた時に、誰が救われているかは神さまにしかわからないと習ったので、考えてもわからないのだろう。)
現実的に不幸のどん底にあり、悲嘆の限りにある人々を、救われていると思えるかというと、私にはそうは思えないので、やっぱり、それについては、私は現実的な救いの手を差し伸べる努力はしたいと思う。
魂より、心と体だ。
私は、人間なので。
ただ、心と体とは別に、魂という存在があるとしたのは、太古の人々の素晴らしい発明だと思う。
魂がいいのは、誰にも、その存在を確認できないことだ。
確認できない、つまり、そこには自由がある。
信仰が他と違うのは、科学的に未確認物体を在ると信じなければ、話が成立しないこと。
存在は、あると思えば存在するし、ないと思えば存在しない。
魂および神さまという存在があるという大前提が、どの宗教にも存在する。
私個人的には、体感があるので、その体感をもって、在るということにしている。
私の内的世界には、それは在る。
現実的な事実として在るかないかは、内的世界の話としてはあまり関係ない。
これには、幼い頃の祖父との体験が大いに影響していると思う。
私の信仰体験の基礎は、祖父と過ごした時間にある。
幼い私は、祖父が障がい者だということに気がつかなかった。
祖父は、さらに心臓も悪かった。
その彼が、この世の誰よりも幸せそうに、いつも楽しそうにニコニコ笑いながら生き、小さな私を神社仏閣を引きずりまわしながら教えたこと。
私の目で見えることと、祖父が語ること(神さまは人を幸せにする)が一致していたので、神さまとはよいものらしいと、私には思えた。
私が今、信仰するものは、祖父が信じたものとは名前が違う神さまだが、私が感じているものは、幼い頃、祖父と過ごした時間を強化したような体感だ。
外側では、吹く風や、さす陽の光、温かな空気、人の温もりや笑顔に、私は神さまを感じる。
だから、私は、私が持つこの体感のことを、別の名称で持つ人も多いだろうなと思っている。
体感に、どんな名前をつけているかは、ほんとに人それぞれよということは知っている。
また、違う体感が、同じ名称を持つことも知っている。
名称は言葉だ。
言葉が同じでも、異なる概念、異なる体感を持つことは普通にあるし、また、言葉は違っても、同じ概念、同じ体感を持つことも普通にある。
だから、目には見えない未確認物体の話になる時、人と同じであることの確認は、ほとんど時間の無駄だと思っている。
それより、自分が感じることを味わうこと、人生の中で経験することが重要だと思う。
個人的な経験として。
私がただいま、実験中なのは、神さまと一緒に生きるという体感が、人生に何をもたらすか?だ。
新しい体感が、半年くらい前から体の中にある。
その体感が生まれた過程は、どこかに書いている。
そして、最近、視覚に少し変化が生まれている。
触覚、視覚に変化が出ている。
つまり、思考も何か変わっている。はずだ。
さて、次は、何が起きる?
私が、他人に、信仰はいいよ〜とおすすめする日が来るかどうかは、まだ未定。笑
今のところは、信仰がなきゃ、この人もっと幸せなんじゃないか?という人もいっぱい見てるので、おすすめするには至らない。
まあ、自分で試してみてから、それからね。
今は、お祈りはいいですよ。
すごいよ、楽!くらいはおすすめできる。