人はパンのみにて生きるにあらずとは言うけれど

 

ご飯の話の続きみたいな感じ。


私は長らく、礼拝にはオンラインで参加している。

しかしある日、一日だけ教会に行った。

その日はなぜか行った方がいい気がしたからだ。


礼拝の後、ほとんどの人が帰り、私も帰り支度をしていた時に、ある人が「Xさんは、言うこととやることが一致していない。だからXさんが語ることにイライラする」と言った。

ある人は腹を立てているというわけではなく、自分の感情を持て余しているみたいに見えた。


その時、私はすでに立って出口近くにいたのだが、(行かなくちゃいけないと思ったのは)ああ、これかと思い、椅子に座り直した。


「あなたはいい。やることをやっているから」と、ある人は私に言った。


私は、「Xさんも、やることはやっているみたいに見えますが」と言い、それから私に見えているXさんがしていることを述べた。

私には、Xさんは、十分なことをしているように思われた。

そして、Xさんは今、それ以上は無理だろうと思っていた。



聖書の中には、人はパンのみで生きているのではないと書いてあるが、しかし実際、人はパンを食べねば生きていけない。


こう祈れとジーザスが教えた定型の祈りの中で、神さまに祈ることにも、我らの日用の糧(今日のパン)が入っている。

この祈りの中で、日用の糧についてのその一文だけが現実的なことであり、後は抽象的な文章が続く。


その祈りのパンにまつわる一文は、いかに、人が、日々の食べものを得ることに苦戦してきたかを、私に教える。

食べられることのありがたさを教えるし、人が最初に望むことを教える。

まず満たすべき他者へのサポートも教える。


個人的には、世界がお腹いっぱいになること、誰もが今日のご飯を心配しなくてよくなることが、神さまの目指すこの世の天国第一ゴールではないかと、私は思っている。

なにしろ、クリスチャン全員に、祈れと指示している中に、パンの話が入っているのだから。



その祈りの中で、パンだけが、現実的な物質として、人が他者に与えられるものだからだ。

その祈りの中には、人の話としてはもう一つ、他者を赦すことも登場するけれど、赦す赦さないは内的な話であり、物質としては分けられない。


人はパンのみで生きているのではないけれど、人はパンがなければ生きてはいけない。

人は肉体のみで生きているのではないけれど、人は肉体がなければ生きていけない。

肉体がなければ、祈りすら捧げられない。



話をやりとりに戻す。


Xさんは、パンを得ることが必要で、そのパンはXさんだけを支えているのではなく、そして、Xさんはパンを稼ぐため以外の自分の時間は、家族の世話をしている。


十分すぎるくらいに、やることはやっていると、私には思えていたのだ。

むしろ、私は、Xさんが、自分のしていることに愚痴を言わないので、偉いなあと思っていたのである。

Xさんがしている家族の世話は、大変な類の世話だ。


Xさん自身、その価値に気づいておらず、自分を卑下することはよくある。(多分にもれず、Xさんも、こんな私というフレーズが好きだ)

けれど、私は、神さまはXさんのことをすごく褒めるに違いないけどねと、思っている。


(私については、信仰の薄いものよ...というため息まじりのツッコミしかしてない感じがするけれど。

まあ別にそれでいい。

私が自分ではできないことをやってくれりゃ、いくら怒られてもいい。)



それで、私はある人に、「私のはただの仕事ですよ」と言った。

たしかに私は他人の相談に乗ったり、他人の世話をしている頻度は高いかもしれないが、それは単に仕事だ。

ただ人の相談に乗るのができるから仕事にしているだけで、そこには何ら精神性はない。


(好きな要素はたくさん詰まっているので、今となっては好きな面白い仕事ではある。仕事にしなくてもそういう役回りは回ってくるので、仕事でやっている方がまだ楽なくらいだ。)


ジーザスも、私の仕事については、別に褒めないだろうと思われる。

それは、誰もがしていることと、なんら変わりないからだ。


経済活動という意味ではなく、この世を動かすために、みながしていること。


私とある人は、しばらく話して話を終えた。

ある人は、少し気持ちは落ちついたと帰っていった。


それから私は、そこにもう1人いた別の人と少しだけ他愛無い話をしてから、「またしばらく来ないけど、オンラインで!」と言って、教会を出た。



帰り道、迎えに来てくれた夫が運転する車の助手席で、私は、なぜ、そのことの価値が、パンを得るために働くことの価値が、生活を支えることの価値が、こんなにも下がっているのだろう?と考えた。