デモクラシーの葬式

 その昔、デモクラシー(民主主義)とオリンピック(平和の祭典)は同じ場所で生まれた。

古代ギリシャ。


大袈裟ではなく、私が今、目の前で見ているのは、デモクラシーの危機だと、最近、時々思う。


デモクラシーの基本概念のひとつに、「多数派が優先される(Majority has priority)」がある。

だから、民主主義国家では、選挙でたくさん票を集めた人が当選して政治家になれる。


日本は民主主義国家だ。

多分ね。

私は最近、だんだんそう言い切る自信はなくなってきているが、まあそうだ。



この民主主義国家にあり表向きは多数決が採用される社会で、最近、よく採られているアンケートがある。

そして、どのアンケート結果でも、70-80%の人が反対だと回答している。


お題は、オリンピックをこの夏開催することに賛成か反対かというシンプルなものだ。

これに賛成しているのは、わずか20%だ。

オリンピックになんらか直接関わっている人がいない私個人の小さな世界の中では、100%が反対している。

自身もいつかオリンピックに出ることを夢見ている高校生の姪まで、反対している。


しかし、今のところ政府はこれをガン無視だ。

誰が最初に中止というかのチキンレースをやっているだけかもしれないが、表向きは開催ありきの動きで、多数派の意見はガン無視だ。


多数派の意見には意味がないらしい。

それで政治家になれたのにね。

政治家のみなさんがよく言う、多数派が支持していることは、どこへ?

デモクラシーの基本である民意はどこへ?



私は、もしも、このままオリンピックが開催されるなら、大袈裟ではなく、それは、日本のデモクラシーがある部分死んだことを意味するような気さえする。

オリンピックが開催できないよりも、もっと大きなものを失うことを意味する気がする。


私は、それは、短期的な経済的損失よりももっと国に大きな損失をもたらすのではないかと思っている。


(開催後、悪い方に転がった場合、経済的損失もえぐいと思っているけれど。こちらは開催してみなければわからない。

さすがに最悪のケースの試算はしているだろうと信じたいが、ともかくお金の使い方がけちくさい現政権の動きを見ていると、試算していないような気もする。

あっちこっちにいい顔をして、水際対策をちゃんとやらず、二兎も三兎も追い、五輪のためなら医療資源確保に動くのに、国民の医療対策は自治体に丸投げしたきた結果、現状、オリンピックはやめてくれと多くの人が思うようなことになっているわけで。

開催後、そのやり方を変えられるとも思わない。)



もしもこの夏、オリンピックが開催されるなら、その開会式は、デモクラシーの葬式だと、私は思う。