お花畑から。スピリチュアルにどはまりしたあなたへ
スピリチュアルにどはまりして足を洗えない人は、なんでもいいから、宗教に足を突っ込むといいのではないかと時々思う。
個人的には見えない何かを信じたいなら、地に足ついたコンセプトを持つ見えない何かを信じると、ふわふわお花畑を飛び回ることにはならないのではないかと思う。
たまにはそれも楽しいかもしれないが、お花畑の中に居続けると、見えていたのに見えなくなり、繋がれていたのに繋がれなくなるものがある。
たまに、お花畑から現実に帰るお手伝いをセッションでさせていただくことがある。
見えていたのに見えなくなったもの、繋がれていたのに繋がれなくなったものを失うデメリットは、麻酔にかかった人が思うよりずっと大きい。
長く関われば関わっているほど、大きい。
お花畑へは、たまの天気のいい休日に花籠を持って花を摘みにいけば十分ではないかと、私個人は思う。
天使がお好きな方はキリスト教へどうぞ。ルーツはここです。
気の流れがお好きな方は神社へどうぞ。ルーツはそこです。
瞑想、癒しが好きな方はお寺へどうぞ。ルーツはそこです。
その人が求める何かは、きっとそこにある。
私の見解では、それらとお花畑の違いは、人生に対する責任を要求するか否かだ。
見えない何かを信じる人を、大人として扱うかどうかだ。
スピリチュアルよりの言葉で書くならば、お花畑滞在時間が長くなる時、グラウンディングがずれる。
地に足つかない状態が発生する。
それがその人にもたらすものは、はっきり言い切るが、貧困だ。
人は霞を食べては生きていけない。
食物は、現実の中にある。
体にいいものはもちろんいいのだが、一番必要なことは、生き抜くエネルギーをそこから得ることだ。
食べものが発する気ではない。
お金がいりますよ。
私のセッションの経験からの感覚では、スピリチュアルにどはまりする人は、もともと繊細で優しい現実にやや弱い人が多いイメージがある。
そういう人に必要なのは、本当は、そこをカバーしてくれる現実的な人々だと推測される。
心地よいという理由で同じ趣味を持つ人と固まっていたら、どうしようもない。
なぜ、今日、これを書く気になったかはわからない。
私に得はない(笑)
損しかない(笑)
多分、あほなんだろうと思う。
けれど、私は、今日はこれを書く。
ぼちぼちタイムリミットだ。
どなたさまも、目で見える世界に帰る時間が来てると思われる。