自立のプロセス

働き出して、最初の秋。

症状が出た。
朝方早く目が覚めて、肩が張り、体が動かなくなった。

昼過ぎれば、体は動くが午前中が無理になった。

私は迷ったけれど、上司に相談した。
上司は少し離れた場所で勤務していた。
上司は、事もなさげに、「じゃあ、スタッフにだけ事情を話して、午後から出勤すればいいじゃん。クライアントには、ごまかしごまかしいこう」と言った。

ごまかしごまかしいくしかなかった。
その頃、私は責任者になっていたから。

そうは言っても、私がいつも午前中いないことに気がついたクライアントもいて、私は、笑ってごまかした。

次の年もごまかしごまかし、また次もごまかしごまかし、そして、次の次の年、症状はひどく出た。

そこまで長く休む必要はなかったので、上司だけが知っていたけれど、ついに、社長にも言わざるを得なくなった。
名古屋駅の高島屋の前から、社長に電話した。

社長は笑って「秋から冬がだめ?おまえは虫か」と言った。
そして、秋、一年で一番忙しい時期に、私は三週間の休みをもらった。


その頃、私は名古屋に住んでいたが、さすがに諦めて実家に帰った。
寝て起きる以外、何もできなくなったからだ。

やだなあ、、、と思いながら帰った実家では、前科がある娘は、そっとしておいてもらえた。
私は寝て暮らした。

二週間少し経った頃、薬が効き始めて、様子を見た父が、そろそろ帰れよ、と言った。

名古屋に帰る前、大阪の会社に上司に挨拶に行った。
大阪の会社のホワイトボードには、「私に連絡しないこと」と、書かれていた。
名古屋のスタッフも、一切、休み中は連絡してこなかった。


その後も、私は、ごまかしごまかし働いた。
場所を移動することが多くなり、ごまかしやすくなっていった。

なぜだか、私の病気や働き方は、一切、私の出世には関係しなかった。
私は、順調に昇格し続けた。


後から上司は言った。
君が休んでくれたことで、他の調子を崩した子が休みやすくなった。
会社はさすがに君は切れない。
他の子なら切ったかもしれない。

だから、君でなければできなかった。
君だけOKで、他の人はだめとは会社も言いにくいからね。
僕はね、以前から、調子を崩した子を切り捨てていくやり方はしたくなかったんだ。
そういう子も戻ってこれる職場にしたかった。
前例を作るのに、協力してくれて、ありがとう。


休んでお礼を言われるとは不思議だった。

ただ、調子を崩した子たちに、大丈夫だ、と言いやすくなったことは、自分も感じていた。

人生はそこで終わりじゃないということ。
休みなさい、ということ。
落ちたら、ただまた浮き上がればいいのだということ。

だいたいの場合は、休まないからひどくなっていくのであって、休めばなんとかなる。


私は、それからも、何度も症状を繰り返したが、最初の年の絶望はそこにはもうなかった。

身体的な症状だけが残った。

そして、私が調子を崩すたびに、私は人の温かさを知ることになった。
ほとんど誰も、私を変な目でみたり、同情したりはしなかった。
ただ、助けてくれようとする人に、私は恵まれ続けた。

それは、私が見た小さな奇跡だった。


やがて、私を知る人は、秋を、私の季節と呼ぶことがでてきた。
私の秋はそういうものだ、と、周囲はこともなさげに受容してみせた。

最初の秋を知る人々は、毎年、心配してくれた。


今の夫と結婚した後も、症状はでた。
夫は、まあ、この人はよくも悪くも物事に動じないが、別に自分は何も困らない、そもそも家事はほとんど僕がしてる話だし、と言った。


そして、たくさんの人達の協力があって、長い長い回復期を経た後、私の病気は治った。

私の中には、温かい思いだけを残して。
病気は、私のトラウマにはならなかった。
私の力ではない。

周囲の人々が、私を受け入れ続けてくれたおかげだ。
ようするに、受容してれた。


そして、精神科医とM先生の2人が、最初の立ち上がりで、私を受容しつつも甘やかさなかったことが大きかったのではないかと思っている。

どちらも長い臨床経験を持つ彼らは、がんばりなさい、と、鬱病の人には禁句であるはずの言葉を言い続けた。
そして、それは、私への信頼だと、私は感じた。

彼らは、やたら励ましていたのではない。
彼らの発言は、おそらく計算されつくしていた。
彼らの仕事はプロだった。


ともかく、主に家族ではない、他人の助けを得て、私は治った。

病気を治していくことは、そのまま、私の自立のプロセスと重なっていった。

親以外の人に助けられることを受け入れることが、私の自立だ、と、私は思った。