ものがたりの力:イングリッシュ・ペイシェント

その頃は、ようやく、私がテレビを見れるようになってきた時期だった。
病気になってからというもの、テレビはうるさくて見られなくなっていた。
音がうるさかったし、画面もうるさかった。
刺激が強すぎた。

脳の情報処理パフォーマンスが、最低レベルまで下がっていたのだと思う。

唯一、見れたのは、ケーブルテレビが街並みをただ淡々と映している映像で、それだけは時々、音を消して見ていた。

やがて、少しずつ、私はテレビを見れるようになってきた。
番組は選ぶ必要があった。
そして、その晩、私は夜中に放映されていた映画を寝転がって見ていた。
そばで、グレー の柔らかい毛をしたペットのうさぎが一緒に寝転んでいた。

私が見ていたのは、イングリッシュ・ペイシェントという映画だった。

私はうさぎを時々なでながら、映画を見た。
うさぎは、私の手を小さな赤い舌でチロチロと舐めた。
このうさぎも私の命の恩人であるが、それはまた別のはなし。


物語の舞台は、第二次世界大戦末期のヨーロッパで、看護師が死にかけの国籍不明の男性が語る物語を聞いていく話だった。
淡々とした決して明るくはないトーンで進む映画だった。

その映画を見ている間に、私の中で、不思議なことが起きた。
なんとも言えない癒されていく感じがしたのだ。

深い深いところが、柔らかく動く感じがした。
自分の中に温もりを感じた。


ふと、「明日」と私は思った。

思ってからびっくりした。
私、今、すごいことを考えた、と思った。
今、私、明日、と思った、と。

明日、の後に何を思ったのかは、もう忘れてしまったのだが、その時、明日、と思ったことだけは、今でもはっきり覚えている。


病気になってからというもの、私は、今日で人生を終わらせること、その方法だけを考え続けていた。
私がかかったのは、そういう病気だ。
別名は、死にたい病だと、精神科医は言っていた。
鬱症状と鬱病は違い、私は鬱病だった。

明日のことなど考える余裕はなかったし、考えたくもなかった。

明日という単語など浮かばない。
今、死にたいのだから。


明日、と自分が思ったことは、私を勇気づけた。
少なくとも、今、この瞬間、自分は死にたくないのだ。


今、考えると、あれは、イングリッシュ・ペイシェントという物語の持つ力だったのではないかと思う。
愛の物語だった。

愛の物語の持つ温もりが、静かに、私の中の何かを癒し、小さな温もりの種火みたいなものに、そっと灯をともしたのではないかと、今は思っている。

そして、明日を考えられる時、自分の中にある生きる力を感じる。
私にとっては、明日のことを考えられる喜びという喜びが、いつでも存在している。

明日の天気ですら。
それがどんな明日でも。


それを教えてくれた映画が、イングリッシュ・ペイシェントだ。