笑顔の理由

もう何年も前になるが、父がある時、言った。
おまえの人生に起きることは、なかなか大変そうだ。

私は、へ?そうかな。
そうでもないよ、楽しいよ、と言った。

父は、おまえが全く大変だと感じていないらしいことが、お父さんには不思議だ、と笑った。


そりゃ、しんどい時期もあるが、過ぎてしまったしんどい時期は、ただ、その時しんどかっただけで、今、しんどくないなら、別に大変ではない。

そういう感じのことを父に言ったら、その最中も、おまえはだいたい楽しそうに「見える」、と父は言った。

そこで、当時まだいた実家の猫がにゃあと鳴いて寄ってきたので、話はそこで終わった。

猫がいたから、そうだ、10年くらいは前のはなし。


最近、知人に頼まれて、しばらく少しだけお手伝いに行っていたビストロで、そこのオーナーシェフが、私は非常に楽しそうに働くのでこちらまで楽しくなるというようなことを言っていた、と、知人から聞いた。

似たようなことは、ブライダルの仕事をしていた時に、何回か言われたことがある。


私が楽しそうに働いているように「見えたり」、大変なこと(とその人が感じること)が起きている時にすら楽しそうに「見えたり」する理由はシンプルだ。

ただ、私が笑顔を崩さないからだ。
ニコニコしているので、楽しそうに「見える」


これには理由がある。

私の笑顔が崩れない理由は、簡単で、私が意識的に、笑顔を崩さないからだ。

それには理由がある。

笑顔を崩さない理由は、その方が、自分が楽だからだ。
表情から、「今、楽しいことをしてるよ」と自分の感情を誤解させることができる。
私はできた人ではないので、しんどいことはしたくない。
しかし、やらねばならない時もある。
そういう時は、自分を騙す。

口角を上げるだけで、脳は動く。
目元を下げて、ほっぺたを上げれば、脳は動く。
顔の筋肉と、脳は繋がっている。

顔は感情を表すだけでなく、感情を作ることもできる。

そして、そのうち、脳が騙されて、本当に楽しくなる。
楽しそうな人に、つらくあたる人はあまりいない。
周囲は親切になる率が高い。

まあ、ようするに、単なる自己中だ。
私は、24時間全部、自分の時間だと思っているので、例え、自分のためではなくだれかのために時間を過ごしていたとしても、自分が心地よく過ごす権利は譲らない。

私の人生の時間を、物理的には譲ることがあっても、心理的には一切他人には譲らない。

私が体験したい時間を、私は体験する。
私は、しんどい思いが自分を成長させないことを知っているので、(私はできた人でないから)、しんどそうな時であればあるほど、笑う。
周りがしんどそうな時も、微笑む努力をする。

周りのためじゃない。
私のためだ。
しんどさに耐えうる心を、私は持たない。
私は、しんどいのが続けば不満を抱く。
そして、そこから成長はしない。
しんどいのが続けば、私は腐り、おそらく愚痴を言う。
笑いのネタとしてではなく、まじめに愚痴を言う自分が、私は好きではない。
それで何かが解決した試しはないからだ。


自分が悲しみたかったり、怒りたかったりすればそうするが、まあ、そういうことは日常にはあまりない。
時々あるが、怒っても、なるべく腹は立てないようにして、気を紛らわす努力をする。

腹を立てて事態が変わる時は話は別だが、怒っても事態が変わらないと思われる時、なぜに、他人のために、私が不愉快な感情を抱かねばならないか、そっちの方がむかつくからだ。

だから、人に話してゲラゲラ笑ったり、とっとと忘れる努力をする。


赤ちゃんがニコニコしてるのを見た大人はニコニコするが、赤ちゃんでなくても、ニコニコする人は人の心を和ませる。
自分もそうだ。

和んだ心がたくさんある空間が、私の好みだから、私は笑う。
自分好みのための空間のために。

まじ、自己中。
しかし、この自己中は、今のところ他人に迷惑はかけていないようだ。


時々すごいと言われるが、すごいわけでは全くない。