当たり前のものを疑う

長らく、本当に長らく、よくわからなかったもので、長らく、どうにか「せねば」と思い続けたものを、どうにか「したい」と初めて感じたので、セッションを受けた。


これは、私にしか解決できない事案のため、クリーンランゲージ&シンボリック・モデリングで、自分の中を探検だ。

私にしか解決できない理由は、それが、私の中にある「時計」と「時間」の話だからだ。

私の体内時計や時間の感覚は、自然のリズムとは非常によく調和している感じがするが、リアルな時計が刻む時間と、あまり仲良くなかった。

時計を腕につけ、分刻みの感覚が必要だった仕事を数年した後、随分と改善はされたが、しかし、時計に合わせていくことは、今でも努力がいる。
まるで、自分の中には、違う時の流れがあるように感じていた。

実家の家族は、私のことを「お姉ちゃんは南の島生まれだから」と表現する。
私がのんびりした時間の感覚で動くからだ。
実家のみなさまの私の認識は、南の島生まれの宇宙人。

なんじゃそりゃ。

実家は、他の家族は全員、中国地方の田舎で生まれているが、私ひとりだけ、生まれた時から都会っこだ!と、私は思っている。


さておき。

この先を考えると、もう少し、時計が刻む時間と仲良くする必要があると私は考えた。

私の肩書きを、ひとつ、にまとめるために、それは絶対に必要だ。
黄色いバスのためにも必要だ。

そして、私は、時間についてなんとか「したい」と、内側から湧く願いを感じた。


セッションのあと、ファシリテーターをしてくれた友人と、これは...とうなった。

そして、当たり前のことほど、それぞれ個性があるのかもしれないという話になった。


つづく。