自分がやればいいじゃない
何かに文句を言ったり愚痴を言ったりすることは、過去には普通にあった。
そして、それは許されていた。
ある日を境に、まるで世界が示し合わせたように、それがあまり許されなくなった。
ある日、ある人が私にこう聞いてから。
「お母さんをあなたは責めるけれど、では、あなたにはそれができますか?
自分にできもしないことをお母さんができなかったからと言って、なぜ、それを責めることができますか?」
25歳だった。
私は、壊滅した親子関係を抱えていた。
自分も半分壊滅していた。
そんな私にそう言ったのは、M先生。
世界は、まるでその会話を聞いていたみたいに変わった。
何か愚痴や文句を言うと、あなたがやればいいじゃない、と言う人が次から次に現れるようになり、最後には、家族までそうなった。
みんな喜ぶ、君がやれ。
恐ろしいのは、家族や友人にそう言われると、そうかな...と考えてみる自分がいること。
それから、志なき人(私)が、自分の不満を自分で解消することを考えることが、まるで志があるように、世界には見えることだった。
世界がよりよくなるように。
考えたこともない。
私は、世界がよりよくなっても、個人の人生が満たされなければ何の意味もないと考えているから。
日本が豊かでも、豊かでない個人がいるように。
そして、日本の豊かさは、その個人を救いきれていない。
歴史の中には、常に貧者がいる。
どんな豊かな国にも。
共産主義にも資本主義にも。
よりよい社会を考えること(志をもつこと)には、私は興味がない。
考えたければ、私は、政治家を目指した。
そうでなければ、実現できないから。
私の中で、世界や社会という言葉は、地球サイズで、私がどうこうするには大きすぎる。
その世界や社会に不満を抱く人をひとり減らすくらいが関の山だ。
このひとり、は、自分だ。
ささやかな日常と、そこで繋がる人々の幸せを願いそのために動くくらいでいっぱいいっぱいだ。
周りは幸せな方が、自分も楽だ。
そして、それくらいなら、私にもできる。
世界や社会を考え始めると、そこには無力感がついて回り、私は無力感は好まない。
同時に、世界や社会を考える人は、ささやかな日常については考えてはくれないから、そこは、世界や社会がどうあろうと、個人ががんばるしかないパートでもある。
よりよき社会、よりよき世界が生まれても、個人の心が幸せかどうかは、また別の話だ。
そして、私の周囲は、私が周りに文句を言うと、言う。
自分がやればいいじゃない。
ああ、厳しい。