不気味なほど別世界

住む世界をシフトする、とか、移行するとかいう表現がある。
まるで別の世界にいるみたいに、自分の周囲がガラリと変わってしまうこと。

それは、本当に、環境が全く変わることもあれば、本人の物の感じ方が変わって、環境は同じでも異なる世界にいるみたいに感じる場合もある。
どっちもある。

何か精神的/物理的に問題があって、人が自分に向き合い始める時、まず、目指す場所は、大体の場合、後者だ。
時には、本当に、環境だけに問題があって、環境を変えれば解決することもあるが、頻度としては少ない感覚を、セッションの経験の中で感じている。

その人の物の感じ方、物の見方(視点)、そういったものを変容させていく作業に取り組むことがほとんどだ。
これは、婚活やパートナー探し、会社の人間関係、家族関係、仕事という日常にありふれたテーマですらそうだ。

物の感じ方、物の見方(視点)が変われば、それで解決する場合もあるし、それでは解決しない場合もある。

私が過去に抱えた自分自身のケースはそれだった。
私が抱えたのは、実家の「家族関係」。
ズタボロの。

そこに取り組み始めて、やがて、私の視点は変わった。
しかし、私は納得しなかった。
現実が欲しかったのだ。

多くの人が、私の家族関係に存在するある条件のため、それは不可能だと言ったが、私は、現実を手にいれることにこだわった。
それが手に入らなければ、なんの意味もないのだ、と。
自分の心だけが救われても、私には意味がない、と。

それなら、まずは、最初に、自分が作る家族でそれをしてみればいい、とある時期言われた。
自分でやってみろ、と。

お父さんとお母さんが作った家庭ではない、自分自身が作る家庭でやってみろ、と。

そうして生まれた私自身の家庭は、子供はいないが、夫、うさぎ、猫3匹のいたくのんきで平和な家庭だった。
夫の母や兄妹との関係も、いたく良好である。

それで、私が望んだものの現実の姿を私は確認した。
のんきで平和。
そういう家族。

それが私の望み。

この世にそんな家族が存在するのですね、というくらい、夫の実家は平和だった。

夫の両親は、非常に柔和な人たちだった。
夫の父は、一風変わった人だったが、優しかった。
夫の母は、夫について、ご飯を食べさせる以外する余裕がなかった(彼女は定年までフルタイムの看護師として働いていた)、ごめんなさいね、よろしくね、と言った。
彼女は、何かと相談には乗ってくれるが、うちには全く口出ししてこない。
彼女のカレンダーは、今でも月の20日くらいは予定で埋まっていて、自分のことで忙しいのだ。
私が外国に行く時、一番背中を押してくれたのは彼女だ。
やりたいことはやりなさい。
後から後悔することのないように。


そんなわけで、もめ事の発生する要素が何もないまま、時間は流れた。
最初の3年くらいは、夫と私はよく喧嘩したが、やがて喧嘩もなくなった。

結婚して以降、私の「家族」の概念は、塗り替えられ続けた。
概念は、経験や体験から作られる。

静かに静かに、自分が作った家族の中で、私の中に平和が構築されていったのだろう。

そして、3年が過ぎた頃、私の実家の家族との関係が大きく変わりだした。
家族との集まりが、ただ楽しいだけの時間へと変化し始めたのだ。

そして、時を同じくして、私の過去についての認知が大きく変わりだした。
まるで、何にも問題のない仲のいい家族の中で自分が育ったみたいなことになり始めたのだ。

まるで、別人の過去のように。


そして、不気味なほど別世界に、私は住まうことになった。
不気味なのは、違和感が全くないことである。

頭は、過去、自分がそうでなかったことを記憶しているので、変わったということはわかっているのだが、変わった違和感はまるでなく、これが当たり前だと自分が感じていること。


私のものの見方も変わっているかもしれないが、確かに、現実が変わったのだ。
私は、誰にも、変われと促していはいない。
いや、夫には、ちょっと!と文句はたくさん言い、現実的に変わってくれと要求はしたが、別の人になってくださいとお願いはしていない。

私には、みんなが勝手に変わったように思えた。

そして、のんきで平和な家族を私は手に入れ、ようやく満足した。
私の実家が抱えるある条件は、今も変わっていないが、全体的にのんきで平和になった。


おそらくは、新しい家族が、「家族」のメタファーとして非常にいい働きをしたのだろうと個人的には思っている。
このメタファーが良かったことは、誰の目にも、それが見えることで、きっと夫の家族の姿に、私の実家全体が影響されていったのではないかと思っている。

ずっと以前のやや破壊的な要素を持つ自分は、この夫の一家ののんきな平和さに耐えかねただろうから、私のものの感じ方が変わっていなければ、夫の一家に加わることはできなかったと思われるけれど。


ともかく、現実は、不気味なほど別世界になった。


私が何を言いたいのかというと、現実は変えられる、ということ。

その人が、本当に、心の底から、そう望むなら。
そして、そのために、自分が変わることを拒否しないなら。

そして、現実が変わった時の満足感は、視点が変わった時の比ではないよということ。
時間や手間がかかるけど、自分にとって価値あるものなら、やってみる価値はあると改めて思った。


そして、その現実に満足した私には、別の新しいテーマが登場したのだった。
人生は、飽きることがない。