父のはなし

子供の頃、父は半分は海外にいた。
2歳からの一年半くらいは、会っていない。
妹にいたっては、1歳過ぎて、初めて父に会った。

日本にいても、休みに父は遊びに出かけてほとんどいなかったが、たまに家にいる期間があった。
家にいる期間の彼は、教科書みたいなものを開いて勉強していた。

勉強は子供がすることだと思っていた私は、大人が勉強する姿は妙だと思い、母に、「なんでお父さん、勉強してんの?」と聞いた。

会社でテストがあるからよ、と母は言った。
会社はお仕事をするところでしょ?と私は聞いた。

ちなみに、母と私の会話は多くの場合、標準語だ。
母が、これは今でも、がんとして標準語しか話さないからである。
彼女がブチギレると、ごく稀に中国地方の方言が出るが、関西弁は品がないので好きじゃないということだ。

私の質問に、母は答えた。

お父さんは、高校しか出ていないから、大学の分のお勉強のところのテストがあるんだって。
それに受かったら、大学卒業の人と同じ扱いになるみたいよ。

そう母は言った。

昇格試験を受ける資格を得るためのテスト、ということだったのだろう。



後年、父は会社に入った最初の日の話をした。

自分のデスクがな、なかったんや。
自分のデスク。
お父さんは、工業高校やなく普通科の高校やったしな、おまえ、もう、それは会社の技術職の最下層や。
ほとんど人間じゃない扱いやな。

彼の会社は、電機メーカーだ。

彼が高校を卒業する時、彼には2つ選択肢があり、ひとつは現在世界トップに近い自動車メーカー、もうひとつは、電機メーカーだった。
自動車メーカーは、労災事故があるまでそこで働いていた祖父のつて、電機メーカーは学校の先生のつてだったらしい。

彼が電機メーカーを選んだ理由は、そちらが技術職だったからだそうだ。
事務系は学歴の差が歴然と出ると彼は考えたらしい。



結局、父は、定年まで、同じ会社に居続けた。
同期は1万人以上いたらしいが、定年まで出向にならずに会社に残っていたのは、彼ひとりだったらしい。

おかしいよな。
お父さんは高卒で、部下は東大出身が当たり前にいる。
彼は不思議そうによく言った。
彼の下で働いた部下は、合計で1万人を越えるらしい。
その中の誰も、心を病まなかったというのが、彼の自慢だ。

(つまり、母の状態は、僕のせいじゃないと暗に言っていたので、娘2人から、家族を部下と一緒にすんな!とボロクソに言われたというおまけがあった)


そして、彼は今も週2日、その会社に通う。
ちょこちょこ病気して休むが、続けている。
そして、この春、ついに、会社の最年長になったらしい。
一位や、と嬉しそうにしている彼を見て、父でも一位は嬉しいのかと意外だった。

彼が会社で何をしているか、家族は全く知らなかった。
電車の何か、ということ以外。


もう退院したが、最近、彼はまた入院した。
見舞いに行って、そこで、私は初めて、彼が何をしていたかを知った。
夫が一緒で、夫の頭は理系なので、父は夫向けに話をしたのだろう。

父は、半導体という言葉が世の中に登場した頃から、半導体に関わってきたらしかった。

まあ、半導体が何かは私にはわからないのだが。

父にとって、それはとても面白いことだったのらしい、ということだけは、わかった。
その面白いことに関わり続けるために、父は勉強し続けたのだろう、と私は思った。


父を見て育ったので、私は学歴をあまり気にしないのだが、両親は、ともかく大学は出ろ、と私と妹を大学に行かせることにこだわった。
私たちが生まれた時に、それだけは、決めていたらしい。

そりゃおまえ、大変なんや。
大学さえ出ておけば、せんでいい苦労がたくさんあった、と両親は口を揃えて言った。

大学を出た後には、「こっから先は自分でやりや、お父さんらはもう知らんで、与えられるものは与えた、教えられることはもう伝えた、あとは自分次第や」と言って、母に、まあ冷たい!と言われていた。



今、父は姪っ子を眺めながら言う。

ここから先は生き抜く力やなあ。
学校出てても、会社は潰れるかもしれんし、ようわからんなあ。
なんか、やりたいもんをはっきりさせておかな、これからの子は、時代に振り回されるわなあ。


来春、父は会社を辞める。
ついに決めたらしい。

家族に新しいステージが訪れる。


私が父に感謝していることは、彼がいつでも、目をキラキラさせながら仕事に出かけていき、目をキラキラさせて、遊びに出かけて行ったことだ。
大人は自由で、働くのは楽しそうだなあ、早く大人になりたいなあ、と幼稚園の頃、よく思った。

早く大人になりたいなあ、と思わせてくれたことに、感謝している。