贅沢だと気づく必要のない世界
さて。
なかなか今年は、本編に入れません。
私と夫は昨日、おかしな会話をしました。
「年明けから、地震や火事や爆発事故で人が亡くなった年は記憶にないね。やはり、荒れる世界の流れから、日本も自由ではないね。
ただ、家ががれきの山に変わり、飛行機が燃えた理由が、誰かや国を憎まなくてすむ理由だったこと。それは大きな違いだね。」
ただ、愛する人が亡くなったことだけを悲しむことができる人の死は、空から降る爆弾で愛する人を喪うよりはよほどましだね。
悲しみには差はないけれど、そこに憎しみが伴わない。
その人の大事な人を救おうとした多くの人がいたという事実は残る。
その人の大事な人の亡骸を、家族のもとに返そうとした人たちがいたという事実は残る。
紙切れ1枚と石ころが入った木の箱で、国もごまかそうとはしない。
(私の大叔父は、今もミャンマーのどこかの山の中にいる。)
これは、残された人の人生に大きな違いがあるはずだね。
自分が生きる時代を恨まなくてすむもの。
生きる時代を恨まなくてはならないとき、そこには、個人の心の傷を考えている余裕はなくなる。
残された家族や兵士の心を考える国家など存在しないもの。
考えたなら、この世に戦場は存在できないもの。
命の重さは、紙切れよりも軽くなり、人の命は数に変わる。
心ではなく、数が意味を持ち始める。
毒親だの、会社のパワハラだの、ブラック企業だのを恨めるのは、余裕ある平時の話。
明日の命が保証されているからこそ、今日、自分で命を終わらせる選択の自由がある。
高い確率で明日が来ると分かっているから、今日、過去を振り返り、過去を嘆いて生きることができる。
高い確率で人生が続くとわかっているから、人生をよりよきものにという幸福権を追求することができる。
日本に溢れる当たり前の不幸が、実は、世界の多くの場所では、とんでもない贅沢だと気づく必要がない世界に、私は価値を置いているのでしょう。
私は、自らの力で解決できる不幸を他人のせいにできるのは、とんでもない贅沢だと気づく必要のない世界に、価値を認めているのでしょう。
そして結局、私は国家より、個人の人生に価値を認めているのでしょう。
そして、個人の人生を尊重し続けている日本という国に、価値を認めているのでしょう。
だから、私は、日本に住み続けているのでしょう。
私には祈ることしかできないけれど、今、寒さに震えながら自分ではどうしようもない現実に耐えている、日本だけではなく世界中の人たちの心に、少しでも、心だけでも温もりがありますように。
さて、今度こそ、本編に。