奇跡を起こす体質

最近、私から父の近況を聞いたある友人が、父や私を表すのに、面白いメタファーを使いました。


「奇跡を起こす体質」

「奇跡を起こす遺伝子」


友人は、私と父は、それを持っていると言いました。

そうして、「奇跡って、体質や遺伝なんかな?でも明らかに、あなたの奇跡の起こしっぷりは、お父さん譲りだよね」と言いました。


父は、最近、支えなしで立てるようになりました。

少しだけ、支えなしで、自分ひとりで歩けるようになりました。



ここまでの流れを知っていた友人は、そのことを、奇跡と呼びました。



私は、自分自身についても、よく、ミラクルな子、運がいい子、やたら人に恵まれている周りにいい人しかいない子、と言われます。

小さな時からです。


「あなたね、いつまでもそれではいけませんよ」と「奇跡」を起こさない母は、私によく言っていましたが、あれから数十年、私の周りではまだ、みなが言うところの奇跡は起き続けています。




私は、人は何を奇跡と呼ぶのだろう?と、この度、はじめて考えるに至りました。


私は、すごい!とか、ミラクル!とか、起きることを喜んではいます。

その方が面白いから。


けれど、私は、自分の周りで、奇跡は起きていないことを知っています。


奇跡ではないから、頻発するのです。


私が運がいいわけではないから、私は運がいいのです。


この奇跡は、神さまの力でもありません。

私には信仰がありますが、父は無神論者です。

もっというなら、私は、神さまは、個人については、全知全能のメタファーだと思っています。

私は、偶像ではなく、メタファーを信仰しています。

私の胸に住まう温もりの力を信じています。

もっと大きな世界についてはわかりません。




私は気づきました。

すでに、私は、答えを出していました。

私の答えは、シンボリック・モデリングです。


これなら、私の奇跡っぷりと、運の良さを、他人に分けてあげられる!と、私が選んだもの、それが、クリーンな質問と、シンボリック・モデリング。



私にとっては奇跡ではない、私の日常。


他人が奇跡と呼ぶそれは、誰でも、手に入る。


もしも、その人がそれを望むなら。


私的には、鍵を握るのは、コミュニケーションです。

自分との関係性。

自分の外側の世界との関係性。

そして、その人が何を望むか、です。


全ては、無数の相互作用の中で起こります。


相互作用、つまりは、コミュニケーションの中で起きることです。


そして、シンボリック・モデリングで、この相互作用の力について注目している部分が、私が思う、シンボリック・モデリングの核心でもあり、日本にはまだ輸入されていないと考えているものです。