知覚空間の広がりからのドラえもん
心はどこまでが心なのか?
つまり、知覚空間とは、どこまで広がるものなのか?
デイビッド・グローブがしていたメタファーを使ったセラピーと、シンボリック・モデリングには、いくつか、明らかな違いがあります。
その違いのひとつは、シンボリック・モデリングは、知覚空間に限界を設けていないところです。
拾う言葉に限界がありません。
メタファーやシンボルへと展開する言葉を、知覚する言葉や感覚を表現する言葉のみに限定していません。
これは、知覚を使用する多くのセラピーやカウンセリングの技法とも異なるのではないかと思います。
ひとことで言うなら、舞台の広さに制限がない。
この違いは、おそらくは、対象とするクライアントの違いから来ていると思います。
デイビッドは、セラピー限定で、主に傷ついた人々を相手にしていました。
問題を抱えた人々です。
シンボリック・モデリングの対象は、「望みを抱く人」です。
そこにはもちろん、問題を抱える人も傷ついた人々も含まれますが、そうではないその他の人々も含まれます。
明文化はされていませんが、シンボリック・モデリングが持たない前提のひとつは、「人は問題を抱えている」という前提です。
それから、私の観察では、知覚空間の広さの違いには、シンボリック・モデリングを作った人々の考えが反映されています。
ペニーとジェームズが口にするのを何度か聞いたことがあります。
「現実から目を逸らすことは、クライアントのためにならない。」
さて。
シンボリック・モデリングで扱う知覚空間は、どこまでだと思いますか?
宇宙の果てまでも。
深海の底までも。
天高い彼方までも。
五次元までも。
その人が「ある」と感じるなら、どこまでも。
今、そこに、あるならば。
これは、私に、「人間がイメージすることは全て現実になる」という、誰が言ったかは知らない言葉を思いおこさせます。
火星移住を本気で計画する人々も浮かびます。
心は、どこまでも広がることができる。
知覚空間は広がり続ける。
内側というとき、それはただ、体の内側のことだけで、知覚自体は体の外側にも広がる。
手が届かない場所にあるマグカップの温もりを、人は実際に体感として感じることができる、みたいなものだろうと思います。
シンボリック・モデリングでセッションをすると、フィードバックとしてよくもらう感想があります。
「セッションで話したことが、どんどん現実になる。」
これは、私自身も体験があるのでよくわかります。
知覚空間を、体内と体のすぐ周辺までに限定しないことが、その理由だろうと推測しています。
たとえ、傷ついた人の心を癒すときでも、その人を現実から切り離さないこと、その人が抱く望みの広がりに制限をかけないことが影響しているのではないかと思います。
だから私は、自由を感じ続けているのかもしれません。
そして、メタファーが広がりを持つとき、知覚空間が広がるとき、現実の世界が本当に広がっていくのは、私が証拠です。
いったい誰に想像できたでしょう?
私、英語、よくわからない。
テキストが読めないと半泣き。
私は、ひとりで外国に行ったことがない。
数年前、びびりながら旅立った人のところに、嘘みたいですが、最近は、英語で、日本語のクリーンな質問についての問い合わせがたまに来ます。
しょっちゅう、外国に住む友達と、チャットで英語で会話します。
私の英語が上達しただけではなく、私の世界そのものが広がっています。
誰に想像できただろう?
心はどこまでも広がる。
心が広がるとき、世界も広がる。
私のこの気持ちをメタファーで表すなら。
空を自由に飛びたいな。
はい、タケコプター!
あんあんあん、とっても大好き、ドラえもん。
そうか、シンボリック・モデリングは、ドラえもんだ!という新しいメタファーを手にいれて、今日はおしまい。
(最近時々、メタファーが、日本でしか通用しないメタファーになってきています。私はやる気になっているのでしょう。このメタファーは、PROの説明で使おう!)