ぬいぐるみのくまさんと、森のくまさん|無機物な非知覚者と知覚者

もうマニアックすぎる話題ですが、知覚者について考えている間に、ひとつ思い出したエピソードがあります。
一つ、というか、時々あること。

もう何年も前になりますが、クライアントさんと私が少々手こずっていたセッションがありました。(今の私なら、もう少しスムーズに展開させるのを手伝えたかもしれません)

当時、私は、「知覚者」に対しての認識が甘い状態でした。
その頃、あるセッションの中に登場していたメタファーのことを今、思い出しました。

それは、「くまさん」という熊のぬいぐるみのメタファーでした。

「くまさん」には意思がありません。
「くまさん」には意図もありません。
クライアントの思い通りに「くまさん」を動かせると、クライアントは思っていました。
ところが、「くまさん」が自分の思い通りには動かないこと、それが、クライアントには不満でした。「くまさん」は無機質なぬいぐるみなのに、自分の思い通りに動かせないのです。

「くまさん」は、ある他者を意味していました。
人間です。

「くまさん」には意図も、意思もあるはずでした。
でも、「くまさん」には意図も意思もありませんでした。
クライアントの世界の中では。

私が手こずったのは、「くまさん」には「くまさんの」意図や意思があるはずだという自分の推測に対してでした。
それを押し付けないようにするのに、自分を抑えるのに、私は、大変苦戦したのです。


その人のランドスケープに現れる他者を象徴するメタファーには、全て、意思も意図もありませんでした。

現実の世界で、他者(人間)には誰にでも、その人自身の意図や意思があります。

けれど、その人の世界の中では、それが全く考慮されていないということを、そのメタファーの数々は表していました。


そのクライアントの望みは、「くまさん」との関係改善でした。

「くまさん」が意思も意図も持たないただのぬいぐるみの間は、それは難しかろうという推測は立ちました。

モノであるぬいぐるみは何もしない。
ただ、その人がぬいぐるみについてどう思うかというその人という知覚者次第の話です。

けれど、その人は、ぬいぐるみである「くまさん」との関係を改善したい。


そして、何度目かのセッションの時、ぬいぐるみだった「くまさん」が、突然、「森のくまさん」へと変容しました。

「森のくまさん」は生き物のくまさんでした。

そして、動いたのです。「森のくまさん」の意思で。
「森のくまさん」は、クライアントに話しかけました。


その後、その手こずっていたセッションで、こう着状態だったクライアントのメタファー・ランドスケープは動き始めました。


そして、数回続いたセッションの最後に、クライアントさんは言いました。

「私が、相手の気持ちを理解しようとしなかったこと。多分、それが、全ての原因だったんだと思います。そうか、相手にも気持ちがあったんですね。そうですよね。当たり前のことを忘れていました。」


知覚者でなかったものが、知覚者に変化した。
本来、知覚者であるべきものが、知覚者ではなかった。


その人がただ、その人の世界の中で、知覚者であるべきものを、知覚者として捉えられるようになった。


ただ、それだけのことで、クライアントの世界が変わったことがあるという、私の経験でした。