話を、見るように聞く
話の聴き方、というときに。
クリーンランゲージを使う人たちが、絶対的にする、違う話の聴き方があります。
クリーンな姿勢(スタンス)で話を聞く
前提を置かない
相手を誘導しようとしない
そういうのはもちろんなんですが、おそらくは、一番、聴き方として違うことは、他にもあります。
そして、私が見てきた限り、時に、初心者の人が苦戦するのは、それです。
それは、私の言葉で言うなら、話を「見るように聴く」やり方です。
正確には、先に、見る話を決める作業があります。
話の「種類」を分類して、ある種類の話を「見るように聞く」作業をします。
例えば、誰かが、
「閉塞感があって、それを打開したいんです」と言ったとします。
この時、私が最初にしているのは、この話の種類が何かの分類です。
実際のセッションであれば、この時、私は、この文章の分類は一瞬で終わっています。
(PRO(ピーアールオー)というモデルに基づいて分類しています。)
それから、私がする質問は、ほぼ決まっています。
(おそらくは、その質問は、初心者の方がなんらかで習い、するだろう質問とは違うと思います。)
そんなわけで、セッションで、私が、この発言を、このまま広げていくことはありませんが、今は、この発言は、例としてわかりやすいので、これを使います。
「閉塞感があって、それを打開したい」
この発言を聞いた私の頭に、まず、浮かぶことは。
この文章は、すでに、メタファー、だということ。
閉じている何かは、どこにある?
それから、
感覚が、閉塞しているからには、その感覚には形があるかもしれない。
それは、打ち開ける何か。
閉塞しているからには、その閉塞には、中身があるかもしれない。
こういうことです。
「見える何か」があるかもしれないと、私の頭は即座に推測します。
そして、今、それはまだ見えていない、ということを認識します。
閉塞感、という抽象概念で表されているメタファーは、見ることができません。
それに、形はありません。
形がないものを、打ち開く、のは困難です。
この時、「打ち開く」を、私は、例えとして捉えていません。
「打ち開く」という動作として、捉えています。
もっと言えば、打って、開く、と捉えています。
つまり、相手が語ったことを、相手が語ったままに、捉えています。
人の言葉が、何か例えを語ったとき、それをそのまま、例えとしてではなく、描写として捉えています。
描写、も、メタファー的な表現です。
描き、そこに写す。
描く、つまり、それは、見える。
写したものも、見える。
そして、描写されているものを、見ようとします。
クリーンランゲージを使うとき、ファシリテーターがする必要があるひとつは、見る、ことです。
見るように、話を聴くこと。
これは、日常では、まずしないため、その感覚は、最初はわかりにくいかもしれません。
なので、まずは、「形になりそうな言葉」を最初は探すことから練習を始めます。
閉塞感、と、打ち開く、ならば、
感覚と行動のどちらが、形にしやすそうでしょうか?
相手が、感じやすいのは、感覚でしょうか?
それとも、行動でしょうか?
そういうことを、言葉から聞き分けるところから始めます。
どうやれば、相手は、
「閉塞感を打ち開く体験」をすることができるでしょうか?
本当に、打ち開く、体験を、バーチャルに、です。
私がこれに気づいたのは、クリーンランゲージを教えている人のひとりに、元美術の先生がいたこと、それから、絵を描くのが好きな先生がいること。
そして、私自身と、よく組んでいる仲間のひとりが、グラフィック・デザインをすること。
他にも、美大を出た人がいること。
何かを作るのが好きな人。
そういうことからでした。
ちょいちょい、そういう人たちがいるんです。
見るように聞く。
これは、他の話の聞き方との大きな違いの一つではないかと思います。
話を見ようとするなら、おのずと、相手とは距離を保ちます。
つまり、介入はできません。
近づきすぎると、話が見えなくなるからです。
私の感覚では、昔習った箱庭療法が、一番近いです。
ただし、箱庭には、すでに、そこに、境界があり、世界の限界は決まっていますが、クリーンランゲージには、世界の限界は設定されていません。
世界の形は四角ではありません。
世界を現実と切り離してはありません。
使う人形や模型は決まったものではありません。
また、癒しを主目的としていません。
そういう違いはありますが、話を見る感覚としては、一番近い感じがしています。
新しい話の聞き方、ではあると思います。
見るように、聞くこと。
理解して聞く、のではなく、ただ話を見る。
そのとき、相手の世界に、違いが生まれます。
生涯一度も、まだしてもらったことがない話の聞き方をしてもらうからです。