信じたように生きなさい

ほんとについ最近のこと。

神戸の真ん中で喪服を着て、お通夜の受付をしました。
新月の夜でした。

その前日に、親友のお父さんが亡くなったのでした。
私は、親友という言葉は重い気がして、使用をあまり好みませんが、それでも何人かは、その言葉でしか表現できない友人がいます。
付き合いの長さは関係ありませんし、私が誰をそう思っているか相手は知らないと思います。

私の態度は、友達には、誰にでも同じです。
それはただ、私の心の中の話。


長い間、話をずっと聞いていたからか、はじめて見る友達のお父さんの顔も、お母さんや友達の兄弟も、みんなよく知った人の様でした。

友人は、ちょいちょい夫にも会うので、夫も参列したのですが、自分の父親の葬式では、平然としていて泣かなかった彼が、この日は、泣きそうになったと言っていました。
自分の父親が死んだ時より悲しかったのだそうです。

変な人。


2時間程、受付をしている間、私の真正面には友達のお父さんの写真があり、私は友達のお父さんとお話しているような気分になりました。
お通夜やお葬式に出ると、故人が語りかけてくるような気分になります。

その人が、その人生で体現したメッセージとでもいうのか、その人生の中で得たことで、伝えたいこと。

友達のお父さんは、ニコニコ笑いながら、やりたいことをやりなさい、信じたように生きなさい、言っているように思えました。

大丈夫。
信じたように生きなさい。
信じたように。


会場の中から漏れ聞こえるお経を聴きながら、私は不思議な気分になっていました。



そして、帰ってきて寝て起きた後、私の中に心境の変化がありました。
それは少し前からあった思いと似ていましたが、同じようで、全く質の違う思いでした。


そして、昔、大きな地震があった頃に、同じことを思ったことを思い出しました。

その日、今日、生きていることは奇跡なのだと思いました。
毎日が奇跡なのだと。


信じたように生きてみよう。


ただ、あの日、私には信じているものはありませんでした。
日々が楽しければいい、ただの女子大生でした。


そして、お通夜の日も、今も、私はただの女性ですが、そして、日々が楽しければそれでいいのですが、何かは変わっているようでした。

信じているなにか、信じる何かが、自分の中にあるようだと思いました。
信念という名前かもしれません。

もう少し、軽やかではありますが、私は、自分の中にぶれない何かが育っていたことを知りました。

女子大生の頃にはなかった何か。