違い

なるほど!あの伸びやかさはそういうことだったか!と、納得したはなし。
同時に、自分中心で物事を考えるのは、やはり重要だと思ったはなし。

2つ。

ひとつめ。
2才違いの妹。

彼女は幼稚園、私は小学生の頃。
私たち姉妹は、小学校と幼稚園が同じ敷地の中にある学校に通っていました。
幼稚園の庭にはうさぎがいて、自由に出入りできたので、私は休み時間に時々、うさぎと遊ぶために幼稚園の庭を訪れました。

いつもついでに、妹はどこかなと探しました。
母が妹を気にかけていたので、スパイも兼ねておりました。
妹は、四月に近い三月生まれで、まだ、赤ちゃんぽかったのです。

三回に二回は、妹はひとりで何かをしていました。
みんなが歌を歌っているのに、ひとりで砂場で遊んでいるとか、みんなが運動してるのに絵を描いているとか。
機嫌はいつでもよさそうでした。
お友達とは仲良くしているようで、みんなと遊んでいる時もありました。


先日、その話になった時、妹は言いました。
そんなこと、当たり前でしょ。
やりたくないことにどうして付き合わなきゃいけないのよ。

また、彼女の通っていた幼稚園は、非常に自由な幼稚園でしたので、それは許されておりました。
ただ、妹は、夏休み中、集団行動の練習に、家の近所の保育園のサマースクールに通わされてはいました。
当時、私たちは他の国にいましたが、母と迎えにいく時にスキマから覗くと、妹は、大阪弁で現地の子供達と楽しそうに遊んでいました。
「ちゃう、ちゃう!」(違う、違う)と、手に何かを持って、現地の子供に言う妹の姿を覚えています。
大阪弁や、、、と、母と笑いました。
彼女は、現地の言葉をほぼ理解しませんでしたが、加えて日本語もまだあやふやでしたが、なんら問題はなさそうでした。


みんなと一緒でないこと、言葉がわからないことは、彼女には、全く問題ではなかったのです。


同じ時期、私は問題を抱えていました。
みんなと一緒にできない、できても苦痛しかない、言葉がわからないということに。

その頃、私が通っていた小学校は、ひとクラス20人のコンパクトな編成で、個性を重視する方針でした。
人数が少ないので、目が届いたのでしょう。
それでも、今、考えると、私は、放課後、先生と2人でお話しする時間が多かったように思います。

先生とお話ししよう、と先生達は言ったので、お話しと記憶には残っていますが、あれは、みんなに合わせることについて諭される時間でした。
Yちゃんは、どうしてそうしたのかな?と、よく質問されたことを覚えています。
それにどう答えたのか、そして、何を言われたのかは覚えていません。


また、言葉は、それが理解できない恐怖をちょいちょい味わいました。
強烈な記憶はスイミングスクール。

そのスイミングスクールでは、最初から足のつかないプールに放り込まれ、水着の背中をちょんとコーチがつまんで子供を泳がせ、体で息継ぎを覚えさせようとしました。
そう、今は、わかります。
よく考えればマンツーマンです。
恵まれた環境を提供してもらったのでしょう。

しかし、当時の私には、時折、コーチが水着から手を離すたびに、アップアップとなる恐怖だけが存在しました。
それしか覚えていません。

コーチが信用できなかったのです。
何を言っているかわからなかったから。
三日目に、私は両親に泣いて訴えました。
殺される!もう行きたくない!

スイミングから、えんえん泣きながら帰ってきたことは覚えている、と、先日、妹がゲラゲラ笑っていました。



妹には、同じでないこと、理解できないこと、は問題ではありませんでした。

私には、同じでないこと、理解できないこと、は問題でした。



もうひとつ。
夫の母のエピソードがありますが、これは、続く。