うにという胸の痛み

ふっと思い出したこと。

それは、中学校の先生に、そうっと、印鑑を借りにいった時。
私と同じ名字の先生がいたのだ。
そして、何度かそうっと印鑑を貸してくれた。
ゆるい時代だった。


その先生を思い出すと、大きな顔と、国破れて山河あり、と同時に浮かぶ。
そして、村上春樹。
村上春樹は、彼の教え子の1人。


ちょうど、ノルウェーの森が発売された頃で、授業中に先生は村上春樹の話をよくした。
とても褒めていた。

彼はいきなりああだったのではない。
ずうっと書き続けていた、と。
中学生の頃には、すでに、作家になりたいと言っていて、売れない時代もずうっと書き続けていて、ご両親がサポートしていたと。

本当によかったと。



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昨年後半、私があることに気がついた後、私の記憶が時折蘇るようになりました。

私が気がついたのは、胸の痛み、が、私の記憶の鍵を握っていることです。

そして、胸の痛みの奥に、胸が痛まない記憶が隠れていて、それらと私を結ぶものが、痛みという感覚なのだと。
痛みの奥にあるものは、必ず、いいものしかない、私には、もうつらい過去など何一つない、と。

そして、痛みは、私をつらくはしない、ただ、痛いという感覚があるだけだと。


やがて、胸の痛みは、「うに」という名前のメタファーになりました。

触ると痛い、割ると中に、甘くて美味しい私の大好物が詰まっているうに。
うには私の胸で踊り、私が何かひとつ思い出すたびに、消えました。

たくさんのうに。


その頃の私に繋がろうとするならば、胸は必ず痛む。
痛みが、私を、私の子供時代と繋ぐ。
胸が痛まない日などなかったのだと。


うにが生まれた時、話していた人に、「私は、思い出さなくてはいけないから、だから、この痛みを置いておいた」と私の口は、言いました。


そして思い出すのは、書かなかった価値ある物たち。
私の日常に存在した数々。

ものがたり。


うにの黒くて硬い尖った殻の中には、甘い甘い記憶。

痛みと同時に存在したこと。
痛みの中で、育てたもの。


うに御殿が建つくらいのうにが、私の中の海にはねむっている、いわば、日常というネタを書きたくなった私がやることは、海女みたいなことだ、と思ったのでした。


ひとつのうにに、ひとつのエピソード。笑