一を聞いたら一しか知らない。

 一を聞いて十を知る。


ある時、これは嘘だと、私は知りました。


一を聞いたら、一しか知らない。

残りの九は自分の推測でしかない。


こっちが、事実だと。



誰でもわかります。


花、という言葉を聞いて、「その花はどんな花?」と尋ねたら、「空を飛ぶ花」などという答えが返ってくるのを体験すれば。


花は地面や木に咲いているもの、または、花瓶に生けられているもの、または、ともかくその辺にあると思いきや、空を飛ぶとな!


この花はメタファー(喩え)ですが、喩えは、何か別のことを言い表しています。



例えば、誰かが「お腹減ったんだよね」という当たり前のささいなことを言ったとして。


そこから自分にわかるのは、ただ、その人がお腹が減ったということだけで、その人が、だからご飯が食べたいか、何を食べたいか、そういうことすら自分にはわからないということを、私は理解しました。


現実的にもそうだということ。


気を利かせて「じゃあ、ご飯にしよう」ということが、必ずしもいいというわけではないということも。



これが何を起こしたかというと、人にがっかりしたり、自分にがっかりしたりする頻度が、むちゃくちゃ減りました。

ほとんど無くなったと言って差し支えありません。


私は、人の気持ちはわかりませんが、割と人の気持ちがわかるように見えているようです。

しかしながら、それは、ただ、私が他者をよく観察しているだけのことで、生きている時間が長くなってきた分だけ、観察と推測と結果のデータが増えただけの話です。


(人の気持ちがわからなかったから、よく観察する必要があったわけです。)



自分が他者について思うことは、全て、自分の推測にすぎない。


はっきりと、それを自分の目と耳で確認した後、私は、人と話すのが前より楽になりました。


一を聞いたら、一しかわからん。

残りの九は推測にしか過ぎない。



それを理解したことで、以前より、他人に自分の考えを丁寧に説明するようになりました。

人には質問するようになりました。

特に、概念的な言葉については、確認するようになりました。


概念的な言葉は、人によって、かなり理解が分かれると知ったからです。


小さな言葉でも。


これは、特に、仕事にいい影響を及ぼしました。



そして、一を聞いて十を知ろうとした頃より、一を聞いたら一しか知らんというスタンスの自分の方が、より多くを知るようになった気がするのは不思議なことでした。


持つ情報の正確性が増したような気もすることも。



クリーンランゲージ以外のことを書いてくれというオーダーが、最近時々くるので、今日は違うことを書こうと思いましたが、本日も、クリーンランゲージの話でした(笑)