「間(ま)」の機能

 



「間の機能」という検索ワードでググってでてきたページを見て、私は、今、自分がやってるのはこんな感じのことだなと思った。


https://www.toho-u.ac.jp/sci/bio/column/0817.html


遺伝子のたった1塩基が変える未来について、そこには書いてあった。


それ以外も、検索結果に並んだのは、言語の話ではなく、生物学的な話ばかりだった。




私は、もしも、言葉が似たようなものなら?と、思った。

たった一語が、人の未来を変えるような、たった一語が、人の何か生物学的な要素に影響を与えるものだとしたら?



そもそも、デイビッド・グローブが言葉について何かを説明する話の例えには、生物学的な例えが割とある。



そして、私は、彼は、言葉をどのように捉えていたのだろう?と、ふと思った。


そしてそれから、私は、どのように捉えているのだろう?と。




そしてそれから、「ありがとう」の話を思い出した。

私が25歳になるまで、意味が理解できないまま使い続けた言葉だ。


その言葉の働き。

そして、それが体感を伴った後の、その言葉の働き。


(どこに書いたか、どこかに書いてある。ありがとうの意味が理解できる前と後で、ありがとうの他者への働きは変わってはいないこと。本人の人生の満足度だけが変わったこと。そして、人生がうんとスムーズになったこと。)



そしてそれから、私は、はははと笑った。


間って、ようは、何も音がない。

そう気づいたからだ。


それってさ、沈黙と同じだよねと思ったからだ。


「沈黙」は、私の大学時代の卒業レポートのお題だ。

提出期限の1週間前に、ワープロのデータが飛んで叫んだお題。


それで二回書いたから、今でも、タイトルまではっきり覚えている。


「英語と日本語における「沈黙」の持つ意味の違い」



私は笑った。

同じじゃないか。

また、戻ってきたよ、音がない言葉に。


それから、思った。

さあ、ここまで来た。


学生時代にサボったツケの支払いは、卒業レポートまで来た。


あの時、私の世界にインターネットはなかった。

私は、映画を見るのが好きだった。

日本、アメリカの映画を見まくった。

そして、沈黙が登場する場面のセリフを聞き取って書いたり、本屋でしゃがみこんで、シナリオを探した。

資料を探すのが、無茶苦茶大変だった。


覚えてる。

そこまで私にCという落第寸前の成績しかくれなかった先生が、そのレポートだけにはAをくれた。


「なんでAだったんですか?」と訝しんで尋ねに来た普段やる気のない生徒に、先生は軽く笑って言った。


「あれはよく書けていたからですよ。資料もよく揃っていた。僕は努力は認めます。」



好きなように書いたものが、受け入れられたことが、私は嬉しかった。

そして、こういう話なら、私はもう少し学校に行ったかもしれないと思った。


私は、同じことをしてる、と、笑い出しそうになった。


今度はインターネットがある。

論文は、読みたい放題だ。


ただし、今度の先生は、英語しか理解しない。



それから、私は、また思った。


それもまた、過去の私が望んだことでしょう?と。


アメリカなら、自分は、もっと楽に生きられる、自分の性格に日本はあわないと、あなたは過去に望んだでしょう?と。

もっと自由に、自分の意見が話せる場所にいきたいと。

議論ができる場所にいきたいと。



アメリカにいたら、先生は英語しか話さない、それは当たり前でしょう?と。

まあ、先生はイギリスにいるのだが。



さあ、さて、と、私は思った。



whenについて、私がやっているのは、私が気づいたのは、偶然ではないと気づいたからだ。



過去の全てを、一枚の写真に、一本の動画に、複数枚の写真に、複数本の動画にして、そこに並べて、そして、今に揃えて、その中のある一点に、焦点を当てる。



今、私が、whenを通じて並べているのは、私の過去の全て。

大人になる一歩手前の私の全て。

そして、この数年学んだ全て。

そして、この数年、仕事で向き合い続けた他者の言葉。

時間軸が異なるが、言葉という階層が同じランドスケープを、同じ時に並べる。


クリーンな質問の中で、whenがやることをやる。

その手前に並んだ階層が同じランドスケープを、一つの時に集め、そして、時を止める。



変わり始める人生の手前にいた、私の全て。

今の頭の中。

時期まで同じだ。

1月。

それと、数年を集約した今。


‘when’



時は巡り巡り、21歳の私が見つめた世界、音のない言葉について、47歳の私は、再び向かい合う。


今度は、短い瞬間の音のない言葉が、人の心に及ぼす作用について。


そして、日本語だ。



そして、21歳の私と、47歳の私には、大きな違いがあることに気がついた。


私、日本を愛してる。

日本語を愛してる。

日本の人たちを愛してる。



そしてそれから、私は思った。

クリーンランゲージは、やはり、魔法なのだ。


人を動かす言葉の魔法。



さて、音のない言葉、「間」の作用と機能を調べよう。

頼むから、言語学的な資料が見つかりますように。


果たしてそれは、理論的にも、’when’と同等の働きができると証明できるか?否か。