靴の履き方

 「自分の頭で考えていい」ことは、非常に大きな要素だなと思った。

何のかというと、学習時において、だ。


なぜに、クリーンランゲージを教育分野に使おうと、その分野用にアレンジした人がいるかが、理解できたような気がした。


「自分の頭で考えた時に、そこに問題が起きない」ことは、誰にとっても非常に大事な体験なのだ、と、私は理解した。


そのために、「いかに自分は、他人とは違う考え方をするか」を把握しておくことも。

思考体系は、いかに、個人個人違うかを理解しておくことも。



クリーンランゲージの質問を、シンボリック・モデリングの使い方で習う時、大抵は、最初に「わからない」経験をする。

座学ではなく、実技の時に。

頭が理解できても、体がついてこない体験。


まず、話の聞き方が普段とは違う。

寄り添い方が違う。

距離の取り方が違う。

立ち位置が違う。


コミュニケーションするには、相手が話している内容を理解する必要があるという常識という名の思い込みが強い人は、自分は理解しなくてもいい、相手自身が理解できさえすればいいという概念そのものを身につけるのに苦労するかもしれない。


話を、何を語っているかではなく、どんな分類の話をしているかで聞き分けるのも、最初は難しいかもしれない。

普段やらない話の聞き方だからだ。


聞き方は、やり方、だ。

思考ではない。

だから、意識だけでは変えられない。

練習がいる。



靴をまだ上手にはけなかった頃、「これはどっちの足に履くものか?」と「自分で考え」て、履いてみたら逆だった!みたいなことが、度々、起きるかもしれない。


その時、「違う、違う、逆!」と靴を奪って履き直させる大人がそばにいたかもしれない。

または、黙ってニコニコ笑って見守るタイプの大人がそばにいたかもしれない。


または、「それでいい?」と、自分で考えるように促してみる大人がいたかもしれない。


靴を逆に履いていること、は、問題だ。

靴が逆だと歩行しずらい。


だから、そばにいた大人は、それを修正させようとする。

それぞれのやり方で。


そして、それは、しょっちゅう起きることのはずなので、忙しい大人は、「また間違えてる!」とか、「違う違う!」とか、怒っていることが、多々あったかもしれない。


それは、忙しい大人の問題であって、靴の履き方がわからない子供の問題ではない。

なんせ、わからないのは、単に、経験値が低いだけの話なのだから。




そして、最初がどのようでも、それでも、靴を左右逆に履いている大人はいない。

自分でどちらが靴の左右か考えて」靴を履くことができる。

「自分で、靴の左右を、認識できる。」


そして、思考し、認識したように、行動できる。



その最初の最初に存在したのは、靴には左右があると理解すること、見分け方を覚えること、そして、靴の履き方だ。


つまり、新しい認知と認識、そして、それに伴う行動だ。



靴の手入れ状態や、選ぶ靴のセンスや好み、靴をどれくらい重要だと考えているか、靴に対する認識は違えど、左右逆に靴を履いている大人はいない。


みな、自分で考えて、靴は履けるようになったが、そこに、「個性」や「価値観」、「好み」という違いが残る。


個性や価値観、好みは、おおげさに言うなら、その人の世界モデルだ。


ひとりひとり、違う。


そして、もう一つ、よく見ていれば、靴の履き方(履く手順)も、一人一人、少しずつ違う。


それまた、その人の世界モデルが影響している。



靴の履き方には、自分ひとりの世界と体験が関係している。



クリーンな質問を使う時は、そこに、最低2人の人間の靴の履き方が存在している。


そして、もしも、自分が話を聞く側(サポートする役割側)なのであれば、その時、優先されるのは、相手の靴の履き方、靴を選び履く手順、靴に対する考え方だ。


これを、その人特有の理論(インヘレント・ロジック)と言う。



クリーンな質問を使う話の聞き方は、ロジカルな話の聞き方だ。



「わあ、靴が上手に履けたねえ!」と、喜びの感覚は育てない。


代わりに聞く。


「そして、靴が上手に履けると、次に何が起きる?」


世界の時間を止めない。

もし自分がよかったねえと思ったとしても、その思いが込められるのは、「そして」だけだ。

たった数文字には、役割があり、そして、共感を表せるのも、受容を、自分自身の声のトーンで表現できるのも、そこだけだ。

同時に、話を次に繋げる間(あい)の手でもある。

舞台回し。


ここを丁寧にやらないと、クリーンランゲージの質問は、感情をケアしないとんでもなく冷たい話の聞き方になる。

特に、他に、コミュニケーション技法を先に習得していない人は、ノンバーバルでできることがまだできない可能性があるから、このつなぎは、丁寧にする注意が必要だ。

(日常では、繋ぎは必要ない。)


そんなやり方は、普段にはない。


感情(という思考そのもの)には焦点をあてない。

感情の体感や、それが意味するものを探求する。


だから、感情的にならずに、向き合うことができる類の話もある。


わんわん泣いても、靴は履けるようにならず、「どっちが右で、どっちが左?というか右左って何?」と考えてみる方が、そして、靴に足を突っ込んでみて、「あ!これは右だ!足は...左だ!じゃあ違う」と確認してみる方が、靴が履けるようになるのは早い。



つまり、クリーンな質問を使えるようになるには、自分で使ってみて、失敗するのが早い。


間違い万歳!だ。


最初から、うまくいくはずなどない。


だって、他人の靴の履き方を考える時、自分がそれを理解しようとするには、自分の靴の履き方がそこにあると、日常意識しながら暮らしてはこなかったはずだから。


「お母さん(お父さん)の靴についての考え方はこう。それでね、これは、右、これは左。靴の履き方については、こう考えるのよ」と、1歳の子供に、靴の履き方を教える親はいないだろう。多分ね。



....


私は、ただいま、英語学習に関するワークショップにでているのだが、頭に浮かび始めたのは、「最高の状態で、クリーンランゲージを学んでもらうために、私にできることは何だろう?」だった。


それで次に浮かんだのが、この靴の話。


何がどうつながっているか、物事は、よくわかんないなあ。