時を操る魔法
今から書くのは、マニアックすぎる話。
日常使い、ビジネス使いには、必要ない話。
クリーンランゲージでございます。
セッション、カウンセリング、コーチングなどで、メタファー部分を扱う必要がある人には、かなり関係すると思われます。
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「ほら、やっぱり、手が動いた」と、画面の向こうにいた人は笑った。
その時、私たちは、「時を止める」方法について話していた。
魔法の仕掛けについて。
英語の魔法では、場面の最初で、言葉が時を止めている。
しかし、日本語では、その言葉は、場面の最後に登場し、すでに、その場面の中で、時は動いている。
文法の関係だ。
加えて、同じく、文法の関係で、日本語は、もともと、過去についても、現在形で語ることができる。
文章の中で、時制の一致は、日本語には必要ない。
「彼女は、虹を見てると言いました。」
上の文章には、現在形と過去形が混じっている。
見てる、は、現在形。
言いました、は、過去形。
英語では、見てるも、過去形で書かないと、間違いになる。
“She said she was looking at a rainbow.”
そういう言語だからこそ、質問の時制を揃えるという発想が誕生したのだろう。
さても私は、魔法のカラクリを追いかけ続けている。
そして、日本語の魔法の呪文と、その使い方を探している。
英語を分解することで。
ほとんどオタクの領域に、足を突っ込んでいる。
時を止める言葉だけでは、日本語の時は止められない、というところまでは、私はたどり着いていた。
日本語の文法がそうであるから。
しかし、時は止めたい。
そもそも、日本語は、過去を今として語れる言語であるからして、だからこそ、今に全てをフックする時を止める魔法は、大きな力を持つだろうと思えたからだ。
では、日本語で魔法の呪文を使う時、「時」を操るに、「時を止める時」にどうやっているか、その日、私たちは話していた。
日常やビジネスシーンで使うならば、ここにはそれほどこだわる必要はない。
おそらく、この言葉は、そんなに登場しないか、しても、どっちにしても、「過去ではなく、今のこととして考えようね」のメッセージ程度の役割を果たせばいける。
しかし。
個人の内面世界に関わる話に使うならば、ここは、むちゃくちゃ大きなポイントだ。
場のホールドに関わる。
そして、私は、そこにも使う。
文章の最後に「〜の時」なら、時は止められる。
しかし、すでに、メタファーランドスケープに発展していて、いくつかの要素を並べる、例えば「a、そして/で、b、そして/で、cの時」なら、すでに、aからcに時間が経過している。
cで時間を止めることになる。
whenからはじまる文章では、最初に、whenで場の時間を止める。
だから、その中のものを「同じ時制(現在形)」でくくるという魔法が使える。
それで、「どうやってます?」という話をしていた時、私と話していた人と私は、2人とも、手を使っていた。
私は、自分が手を使っていることには気がついていなかったが、私がやってみるのを見たその人は、「ほら、やっぱり、手が動いた」と笑った。
2人が無意識にしていた動きは、同じ動きだった。
「〜の時」については、言ったり言わなかったりするのも同じだった。
なんなら、「and(で、そして、それで、など)」も言わない時があるのも同じだった。
「時」は、メタファーだ。
クライアントのメタファーやシンボルを羅列した後に、すでにある場の時を制御する時間のメタファーが登場させたところで、瞬間を捉える働きは弱いと推測できた。
まあ、数年経った後から気づいたのだが。
理屈は後だ。
私が時間を止めるためにしていたことは、間を使うこと、間で時を止めた空間を生み出すこと、それから、場を包むジェスチャー、その組み合わせだった。
話をしていた人も、似たような工夫をしていた。
そして「音」
この魔法は、音の力も大きいと、どちらも感じていた。
「最初に魔法の呪文を組み立てた人は、シェイクスピアが好きだったらしいですよ」と、私は言った。
流れるようなトーンで、質問にも抑揚をつけて、彼は質問していた。
それは、今も変わらず、魔法の呪文は、2つのトーンで、抑揚を使い分ける。
1つは、クライアントのトーンとペース。
1つは、ファシリテーターが生み出すトーンとペース。
話の最後に、ほんで、ここまで必要とする人は、何人くらいいますかね?と、私は笑いながら言い、しかし、まあ、相談業で使うなら、ここは解決しなければ、機能が弱くて困るだろうねというところになった。
(まあしかし、その人と私が同じところに、自分でたどり着いていたように、仕事で使っている人たちは、多分、同じようにやってんじゃないかとは、推測できる。)
andとwhenは、全ての魔法の呪文に入っている。
魔法の世界の「場と時を制する鍵」は、その2つに違いないと、もはや、確信に近い感じで、私は思っている。
別の言葉でいうならば、神は小さきところに宿る、だ。
場と時。
魔法の世界の空間と時。
舞台装置。
さあ、さて。
日本語。
自分が使うには、まあ、もう、訳はどうとでもなる。
使い分ければすむ話。
他者にシェアしたい時。
そして、その他者が、必ずしも、セッションやコーチング、対人支援の経験を持っているわけではない時。
いろんな条件の人に、魔法の呪文とその使い方を伝えたい時。
「今、全てはこのよう。
それなら、日本語の魔法に、何が起きればいいのだろう?」
「そして、それらが全てこのよう。
そして、私は、魔法の呪文とその使い方を他者に伝えたい。
そして、伝えたいという時、それなら、私は何が起きればいい?」
考えようとしたら。
突然、頭の中で、「赤い海賊の旗」がパタパタするのが見えた。
私と私のセッションに、戻っておいで、と、私の中の私が呼んでいるみたいに。
私(の体)が何か知っているのかもしれない。