共鳴

 共鳴。


クリーンランゲージを使う人に、クリーンランゲージは何のよう?と問いかけた時、時々返ってくる言葉の一つです。


クリーンランゲージは(あなたにとって)何のよう?


「理解することより、繰り返すこと」「理解するより、相手が使った言葉を変えないこと」に重きをおくこの技法では、その質問に対して、「共感」という答えが返ってくるのはほぼ見かけませんが、この共鳴は、ちょこちょこ見かけます。


この質問は、英語で交わされていることが多いです。


というわけで、元の単語は、resonate

動詞です。


日本語訳は、鳴り響く、反響する、共鳴する、響き渡る、そんな感じです。



(ちなみに、私は、この質問を、クリーンランゲージ&シンボリック・モデリングの構築者のひとりに投げかけたことがあります。その時は、たくさん書いているから、それ以上はないよという答えでした。

彼にとっては、一言では無理、という回答。

また機会があれば、尋ねてみたいと思います。)



共鳴。


共に感じるのではなく、質問を通じて、互いの個性(リソース:その人が持っていて、価値を認めているもの、または、好きなもの)や、2つの世界観が反応し合う。


そんなイメージかな?と、私は理解しています。



私が、クリーンランゲージ(&シンボリック・モデリング)を使うのが好きな理由のひとつは、「自分の」この理解です。


(それぞれの人が、共鳴について、どのような理解を持っているかは、聞いてみないとわかりません。)



練習や自分がセッションを年に数回受ける場合を除いて、ほとんどの場合、私は、質問する側にいます。


この時、私が追求するのは、質問される側(クライアント)の世界観を、質問される側の人(クライアント)自身が理解するのを手伝うことです。


面白いのは、この時、そこに存在する自分の世界観も認識していなければ、それが手伝えないことです。


「自分の理解は、相手の理解と異なる」ということを、はっきり理解していなければ、クリーンな質問は、うまく機能しません。


「違う」ということを理解するために、そこに、自分自身の世界観があるということをはっきり認識しなければいけない。


それが、面白いなと思うのです。



おそらくは、その違いは、質問を生み、そして、その違いがもたらす何かが相互作用し、そして、共鳴するのだろうと推測しています。


世界観に違いがあるからこそ、思考回路に違いがあるからこそ、個性に違いがあるからこそ、そこに、誰かのかけがえのない世界に、新しい何かが生まれるのを手伝うことができるのだろうと。


たった一つ、自分の世界観を相手には押し付けないということだけ、守ることができたなら。



この共鳴するについては、言葉すら必要ないのだという経験を、私はしたことがあります。


それは20161月のことでした。


その時、145人の人が輪を作って座り、輪の真ん中の椅子に1人(A)、座っていました。


Aのメタファー、名前は「X」に、みんなが順番にクリーンな質問を問いかけていくというワークでした。


私は、10番目くらいに質問する予定でした。


私の番まで回ってきた時、私は、「そのXはどのあたりですか?」と、尋ねようとしました。


ところが、私が尋ねようと口を開こうとした瞬間、Aさんは自然に語り始めました。

「そうだね、Xはね、この辺りで

そして、手を頭の周りで動かして、それから、私の方を見て頷きました。


私は、びっくりしました。

してもいない質問が、まるで、Aさんには聞こえていたようだったからです。


でも、びっくりしていたのは、私だけだったらしく、すぐに、次の人の質問へと、場は自然に移っていきました。



その後、セッションをする中で、何度か似たような経験をしました。



そしてやがて、私は思いました。


ただ、見届けるだけのつもりでいいのかもしれない。

クライアントには、私の声が、どうやら勝手に聞こえるのだと。



そこにいる、それが重要なのかもしれない。

相手とは違う世界観を持つ人が、そこにいること、それが重要なのかもしれない。



そこにいさえすれば、そこに、相互作用という共鳴が起きて、何かが生まれる。



そして、それから思いました。

ならば、それは、日常で起きていることにほど近い。


クリーンランゲージは、日常を変容させる力を持つはずだ。

つまり、世界を変える力を持つはずだ。


「何に」共鳴するか、その共鳴するポイントを変える訓練に、クリーンランゲージは役立つはずだ。


2つ、または、それ以上の世界観が、共に共鳴しあい、何かを生み出すこと。

一人一人の個性が輝く中で。



私が見たいものは、そういう世界なのかもしれません。