使命感と志を探しに探して、なかったので、仕方ないから祈ってみた話

 

私には使命感も志もない。

これがあれば随分と楽だったのかもしれないが、ないもんはない。

私は人生が楽しければいい。


それともう一つ、使命感や志がなければ人生や世の中が良くならないのであれば、それは永遠に変わらんだろうと思っている。

一部の人は、生まれつき、社会のために生きるためみたいな生まれ方をしていて、そのような育ち方もしていて、知能も揃っている。


しかし、私を含めた大部分の人は、そんな育ち方はしていない。

使命感や志が芽生えるには、それなりのなんかが必要であるが、それなりのなんかなどないまま人生を終える人は山といる。


使命感や志がなくて、悩む人はたくさんいる。

これは特に男性に多いイメージが感覚的にある。


ないなら別にいらんやろと、私はある時、思った。


使命感や志がない人だらけでも、よりよい社会になる仕組みにならない限り、社会は変わらんだろうと思っている。


人生において、使命感や志は、ひとつのリソースにすぎないと思っている。

合う合わないがあるんでないかと。

合う人には強力なリソース。

文句なく、間違いなく。



しかしある時、それらがあれば随分と楽だと気がついた。

それらがあれば、昨日書いたようなことも、私は気にしなかったはずだ。

聖書の中の人のように。


社会を、世界をよくしよう!

それが自分の使命だ!

恐怖と戦おう!


私はそうしただろう。

そして、今、すでに恨まれて死んじゃっていないかもしれない。


私は、徹底的に争いを避けた。

だって、使命感なんてないもん。

志もないもん。

楽しかったらいいんだも〜ん!


私が、人の幸せや喜びに加担するのは、私がそれが好きだからであって、人を幸せにするのも、人に喜びを与えるのも、別に使命でもなんでもないのである。


人に嫌われたり、怖い思いをしてまでやるもんではないのである。

志はないから。

好きなだけだから。


しかし、好きが強まった結果、私は、そうね〜、あれば楽だわねと思った。

怖いを乗り越えていくために。


使命感に志。


昨日、気づいた後、私の胸はとんでもなく苦しくなって、みぞおちはきゅんきゅんした。


対応しないといけませんねレベルの。


それで、私は探しに探した。

使命感!志!カモン!


しかしながら、探しても探しても、やはりなかったのである。

ないもんはない!


仕方ないので、私は祈ることにした。


あのねえ、神さま、みぞおちと胸が苦しいの。

これね、邪魔なの。

私が怖くないように、これを取ってください。

それとね、一緒にいて、私を守ってください。


途中で私は朝のお祈りを忘れていたことを思い出し、あ、すみません、これも忘れてましたけどもと、主の祈りを追加した。


するとどうでしょう。

途中から、体がポカポカしはじめて、肩から力がすうっと抜けた。

胸がとても熱くなった。


大好き!どうもありがとう!と、私は思った。神を褒め称えたわけである。よし。

(教会で褒め称えなさいと言われる。笑)



それで私は気がついた。

使命感も志もない私が、代わりに採用したのが、信仰だと。


私、自分でやらない、乗り越えない、恐怖対応は神さまやって!の、めんどくさがり極まれり。


お祈りは簡単なのである。

気持ちいいし、楽しいし。



そして、もしかしたら、使命感や志も、気持ちいいものなのかもしれないねと、私は思った。

私は知らないままで人生を終えそうな気がするが、知らないことがあるのもまた、人生だ。

全部は体験できません。


ともかく、信仰は、私向きであると、私は思った。

気持ちいいし。