光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。

 

徹底的に、自分のパフォーマンスをあげようとする時、ああ、こうやればいいのかというのが、最近ようやくわかってきたような気がする。


それは、徹底的に、好きじゃなかったり、居心地が悪かったり、快適じゃない状態を自分の環境から排除すること。


自分は安全だと思える状況を作ること。



私は、自分が長らく、生存欲求という人間が生きるにあたり満たす必要がある根っこの根っこの根っこの欲求を満たさないまま生きていたことに気がついたのだ。


昨日。


たった1分話しただけの私のことを何にも知らないおじさんが、おじさん自身について、所見をふっと語ったのを聞いて、あ!と。


これだ、と、私は気がついた。

それは、身の危険を感じさせるような目にあった経験。

数回。


すっかり忘れていたし、自分の行動にそこが関係しているとは考えてこなかったが、「心の傷」と向き合い続けた過去、普通に考えればそれは浮上しておかしくなかった。


あ!と、私はまた思った。

心は傷ついてない。

ただ、生命の安全が保証されなくなると思ってるんだと、私は気がついた。


危ない、と。


ストーカーだ。

まだそんな言葉が世になかった頃。

母は私に「あなたが悪い」と言った。

私の最初の結婚は早かったが、その時、母は泣いた。

「いつか男の人に刺されてしまうのではないかと思っていた。よかった、無事にお嫁にいけて。」



人気を欲しがる人は多い。

私は割と人に好かれる。

それで妬まれることもある。


自分が本気でやらないのは、それが理由かと思ってきた。

違う、と、私は気づいた。


私を妬む人がいる時、いつも同時に、私を守る人たちが存在している。

そして、それらの人たちが、自分を守ってくれてきた。

そう、怖くはないのだ。

感謝はあっても。


自分を嫌いな人は、怖くはないのだ。

妬む人や自分を嫌いな人は、怖いのではなくめんどくさいだけだ。


怖いのは自分を好きな人だ、と、私は気づいた。

時折現れる、病的に自分のことを好きになり、やがておかしな行動に走る人。

男女を問わず。



そりゃ、どんなに人に言われてもやらんわ、と、私は思った。

身の危険を感じているなら。

体が。


私は、仕事では男性と組むことが多いが、その理由にも気がついた。

その方が安全だからだ、と。

守ってもらえるから。


なんとまあ、いろんなところに影響してることと、私はぼんやり思った。



それから、それでも、と、私は思った。

それでも、最近やろうとしてるな、なぜだろう?

やり方を工夫して。



私は、人の幸せや喜びが好きだからだと、私は気がついた。

恐怖に打ち勝とうとしてるのは、好きか、と思った。


愛は何よりも強いはほんまやなあと、私は思った。

好きって、つまり愛で、愛は光だ。


ジーザスがニヤッと笑った気がした。



“光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。”

ヨハネの福音書1:5