クリスチャンになってまもなく二年のある日曜日の朝に思うこと

 

すごく個人的なやり方だが、聖書を読む時、私はパートによって、解釈の仕方を変える。


旧約聖書は、父なる神様の神としての性質、特徴、そういうのが書いてあるパートとして解釈する。

たまに、やることがだいぶ恐ろしい。

聖書の神さまは、スーパーパワーだが、目的のためなら手段は選ばんと、私には見える。


新約聖書の福音書は、ジーザスが人として生きた四年間が書かれた同じ時期を別の人が書いた四つの福音書と、パウロさんという人が書いたすごい量の手紙のパートに分かれる。

パウロさんは、筆まめ。書き倒している。


それからもうひとつ。

最後に、閉じこめられ、どう考えてもコンディションが超絶悪いヨハネさんが書いた、旧約聖書みたいなパートがひとつある。

預言パート。


このパートは、数多くのハリウッド映画を生み出した創造の卵の宝庫のようなパートだ。

それから、おそらくは、今回、欧米諸国が日本とはまるで異なるシビアさで流行病に対応している理由と、最近、軍備の増強に励んでいる理由も、ある国を非常に危険視している理由もこのパートの影響だろうと思う。


書いてあるから。

似たようなことが。

ただし、書いてあることは、これまでも地球上で何度も起きたことで、今の流行病がそうなように、目新しいことではないけれど。

そして、いつかは、必ず、自然にそうなるだろうというようなことだから。

地球に生きていれば。

 

というわけで、個人的には、このパートは意味としては軽い。

映画やドラマのたたき台としては素晴らしく、ヨハネさんは、今の世ならば、スティーブン・キングさんを抜く世界的ホラー小説家だろう。

(ただし、ヨハネさんが書いたのは、フィクションではなく、彼が見た預言という位置付けだ。今の言葉なら、ビジョンかな。)



私個人が、一番、まじめに読むのは福音書で、そこは人にもできること、こういう風にやりなさいよというのが書いてあるように見える。

だから、私はできることは真似をしようとする。


旧約聖書の部分は、世の中の仕組みを知るのに役に立つ。

なるほどなあと。


聖書に書かれていることは非常に社会性を持ち、内面や考え方、人の存在そのものについての記載は、私がよく知るもう一つ別の東洋の教えよりうんと少ない。

異質なものだ。

他(神と他人。自分以外の存在)との関わりについてに多く書かれている。


比べる人がよくいるが、私には、二つを並べて比べるのはちょっと難しい。

焦点を当てている箇所が違うからだ。



さて、パウロさんが書いたおびただしい数の手紙は、時代が古いので、私には納得しがたいこともある。

男尊女卑に、奴隷容認に。

権力や好き勝手な支配にもYESだ。


なるほどなあというとこも、たくさんある。


同じように、神の教えを土台として考えても、現代とはまるで異なる思想がそこにある。


それは、私に、信仰や宗教という土台を基にしても、その上に広がる発想はひとつではないということを教える。

だから、クリスチャンと、ひとことではまとめられないねと。

いろいろだ。


そして、社会のありようを決めているのは、ひとりひとりの人間がどのように考え、どのように行動するかなんだなと感じさせる。

パウロさんの書いた部分は、何かを信じてりゃ、それで人生がうまくいったり、うまく回ったりするわけじゃないと思わせる。


結局は、つまり、自分次第だなと。


ただし、自分が考えていることを自分が信じる強さを、神という名は強化するような気がする。

信念ってやつね。


信念があるといいこともあり、必ずしもいいことだけではない。

信念がかたくなさに繋がれば、平和が崩れてしまうこともある。

豊かさではなく貧しさを生むこともある。

貧困な思想。



まもなく、私がクリスチャンになって二年になる。


変わったことは、さらに、私自身の人生への自己責任感を私が感じるようになったことと、より頭の中が自由になったこと。

持てる力を余すところなく使い、世に還元する方法を考えはじめたこと。


いつも励まされている何かの存在があるように感じていること。


人と違うことを言い、人と違うことをすることに恐れがなくなったこと。


祈るようになったこと。

(これは、祈りが大層実用的だと気づいたから。)


とりあえず、よかったことがいっぱいなので、ジーザスの子羊、つまりクリスチャン続行である。


ちなみに、私は、相変わらず、お寺や神社にちょこちょこ遊びに行くが、何も悪いことは起きないので、不都合はないらしい。

そこの神さま仏さまにお祈りすると、話がややこしくなる。(多神教じゃないから)

だから、こんにちはしか言わないが、お寺や神社は綺麗なので、そこのお庭でお祈りするとすごく気分がいいから、実は教会で祈るより好きだったりする。

だいたい場所を変えてお祈りしたいなと思っても、そんな自由に入れる教会が周りにないのである。

お祈りしていいよと場所を開放してくれている私の生まれ育った国にたくさんある場所を、ありがたく私は使わせてもらう。



そしてお祈りしてると、根っこはきっとみんな一緒と感じたりする。

これは、クリスチャンになる前と後で変わらなかった。


人の幸せ、人の救い、だ。

心がポカポカしてること。