怒りの裏側
ああ、わかったぞ、、、ということひとつ。
私が怒りを覚えることがあり、それを自分にした人を許すのに少し時間がかかることがあります。
その根っこがわからなかったのですが、突然、その根底にある価値観にたどり着いたのでした。
言語化できてすっきり。
ちなみに、怒りとの付き合い方は、セッションでも時折登場いたします。
私個人は、怒りを許す(怒りを忘れる)のは得意です。
これは許すことがいかに精神衛生上によく、楽に生きるための技かということを理解し、トレーニングすれば、誰でもできるようになります。
許さないことは、自分が苦しいだけのこと。
ギリシャ哲学のオプティミスト(快楽主義)に共感する私としては、いかに忘れるかに心をくだきます。
そのために、怒る時は、真剣に怒ります。
抑圧すれば、深いところに残ります。
相手に伝えるかどうかは別で、ほとんどの場合は伝えません。
私が怒りを伝えるのは、相手を信頼している場合と、怒りを伝えなければ改善されない何かがある場合のみです。
改善するために、怒りを伝える、という手段をとることはあります。
時間をおいて、冷静になれてから、淡々と伝える努力はします。
ほとんどの場合は伝えません。
ただ、相手がそういうことをしたという事実のデータだけ自分の中に残します。
これは、未来のためです。
人間関係は、いつでも、自分が選ぶことができます。
関わらざるを得ない選べない人間関係ですら、心の距離については、自らが選択できます。
私は、人とは逆のパターンで、心を閉じるということを、この二十年の間に学ぶ必要がありました。
もともと、非常に人懐こく、誰にでも心を開いて、痛い目に散々あったからです。
あなたは、この世に悪い人がいないみたいに思ってるように見える、とは、以前よく言われたことです。
(今も、博愛主義には変わりなく、根っこは全員いい人だと思っていますが、言動や表に出ている性質が、必ずしもそうではないということ、問題を好む人がいるということ、表に出ているものも考慮する必要があるということを理解しました。何を考えているかではなく、何を言い、何をしているか、目に見えるところを判断材料にすること。)
さて。
私の怒り。
怒りとの付き合い方と、私の思考の現在の仕組みはそんか感じですが、怒りを感じること。
これは遺伝的に受け継がれてきている私の価値観のひとつだと推測します。
教育の機会をだれかの思惑や恐れや個人的損得感情、経済的理由といった本人とは関係しない外的要素で奪われることについて、どうやら、私は怒りを感じる模様です。
自分に降りかかった時はさらに。
教育の機会均等。
これを求める心が、おそらく遺伝的要素。
で、そこに気がつき。
これは邪魔だ、と私は思いました。
黄色いバスが楽しめなくなる、と。
そこに焦点を当てると、私はず〜っと腹を立てている必要が登場する(笑)
黄色いバスの舞台は、不均等も不均等の場所です。
ず〜っと怒っていられます。
いらん、と思いました。
やることは変わらない、黄色いバスのプロジェクトには、教育の機会均等の思想は確実に要素としては含まれますが、それがない現実が存在する限り、この怒りの価値観は非常に邪魔だ、と。
私が、楽しく、プロジェクトを進めるためには。
仕方あるまい、自分自身の身に、そういうことがもし起きても、もう、それを見るのはやめよう、と決めたのでした。
どうせ、あと少ししたら、私の勉強の機会は、私自身ではない外的要素で失われることがでてくるし、と。
そうしたら、ずっと不満を抱えなくちゃいけなくなる、、、。
おお、いやだ、、、、。
というわけで、私が怒りを感じる要素の根っこに気がついた瞬間、私はその価値観を手放すことにしたのでした。
代わりに、新しいリソースを残しました。
これ、かなり強いです。
それは、お勉強が好き、というリソースでした。
勉強が好き、学ぶのが好き、だから邪魔されると腹が立ってきた、でも、ただ、私は勉強が好き、と。
学校に行くのは好きじゃなかった(笑)、でも、勉強は好きらしいね、と。
大好きだ。
怒りの裏には、リソースがあることもある、という話でした。