怒りと悲しみ

二十代に心理学と心理カウンセリングの勉強を始めた頃にした、感受性訓練だったか、共感性訓練だったか、名前は忘れてしまったけれど、その中でしたワークのひとつ。


A、B、二人組で背中をくっつけて、背中あわせに座ります。
どちらか一方の前に感情の名称を書いた紙を持った人Cが立ちます。
Cが感情の名称をAに見せます。
Aはその感情を自分の中に再現します。
Bは体感覚で、Aが見た感情をあてます。


感情の名称は、うれしい、悲しい、怒り、楽しい、面白い、悔しい、とかいろいろ。
最初に得意不得意はあるけれど、練習すれば、誰でもわかるようになるということでした。


自慢しますが(笑)私、こちら非常に好成績で、最初からバンバン当てられ褒められた記憶があります。
ただ、どうしても見分けがつかなったものが2つ。

それが、悲しい、と、怒りでした。


相手の表情は一切見えず、伝わってくる体感覚で感情を見分けるワークでしたが、感覚がその2つは同じように感じられたのです。
何度やっても、他は全部当たるのに、悲しいと怒りだけがわかりませんでした。

M先生は、私に、私の中で感情の分化ができてないからだと言いました。
そして、あなたは、自分の中で、自分自身の悲しいと怒りの見分けはできる?と聞きました。

なんでも、悲しいの方が、複雑な作りなのだそうでした。悲しいを感じるには、感覚だけでなく、物事と物事の間に関係性や物語が必要で、小さい子供はわかりにくいことがあると。


ちなみに当時、私はまだ、何にでもよく怒っていたので、名前のゆかりをもじって、いかりちゃんと呼ばれることもあった程でした。

後に、喪失がきっかけに生まれた悲しいという感情が原因で病にかかり、死にかかった後、私は理解しました。

私は、悲しいよりも怒っている方がましだから、過去、怒っていたんだと。
悲しいは、私の命を奪いかねなかったから、私が私を守るために、怒っていたんだと。


もう、今は感じても大丈夫だから、きっと、今、わかったんだと思いました。
悲しいと感じても、もう大丈夫。


そのあと、また、別の現象が起こった時期がありました。

何にも腹が立たなくなった時期があったのです。
その時期、私の人生は、過去類をみないほど穏やかな日々でしたが、人生の彩りは薄れました。
情熱が行方不明になったのです。

怒りと情熱は出どころが同じような感じがしますので、その出どころに何かが起きていたのでしょう。

その代わりに、悲しいと感じることが増えました。
その頃、悲しみはもう、私に壊滅的なダメージを与えなくなっており、私は、怒った自分の破壊力を知っていて、他者にその破壊力を向けることを好まなくなっていました。
そのあと、ろくなことにならないことに気がついたからです。


しかし、怒りを、自分の中で収める方法は、まだよくわかりませんでした。
それで代替の感情として、悲しいと頭では思うようになったのではないかと思います。

どうして怒られないんだ、とよく言われました。
これは数年続きました。



やがて。

これはここ数年のはなしですが、私に怒りが戻りました。
同時に、色鮮やかな悲しさも感じるようになりました。

しかし、怒りも悲しみも、もう私を苦しめはしません。
見分けがつきます。

時に、今、怒るとまずい!という時に、悲しいでいったん理解していることはあるようですが、後から、ああ、怒ってるな、、、と気がつけるようになりました。


やはり、私は、怒った自分が怖いらしい(笑)
私、ものすごく冷酷なので、マジギレすると(笑)
殴ったりはしませんが、相手を傷つける的確な言葉をいいます。

今はもうしないと思いますが、まあ、悲しいで感じている方が無難でしょう。。。
そんなことをしても、誰も幸せになりませんから。


ちなみに、クライアントさんに怒ることはありえないのでご安心ください(笑)