なるほどなの続き。
なるほどなの続き。
なぜPROをやるのか、その効果の恩恵をこれまであまり受けていなかった私は、おお、問題を抱えた脳にストレスをかける効果はすごいな、、、と感じました。
同時に、これは以前から感じていましたし、ジェームズもどこかに書いていましたが、PROは全ての人には適用できないと思いました。
状況によっては、ストレスがかかる可能性があるので、それに耐えうる精神状態の人でないと苦しいなと。
最初の質問をして登場した答えと本人の状態によって考える必要があるか、もしくは、それでも使った方がいいと思われる場合は、最初に、説明しておくかだな、、、と思いました。
しかし、また同時に、やはり望む力は素晴らしいと思いました。
さて。
私の中から、その望みが叶うチャンスがきたという気づきが浮かんだ後、私は、脱力しました。
ああ、そうか、、、、と。
体中の力が抜けました。
そうか、、、。
放心しました。
自分は、本当にそれを望んでいたということと、諦めてはいなかったということを感じながら。
過去、誰もが無理だと言い、自分も無理だと認めたその望みは、過去の長い間、私が勉強し続けてきたモチベーションでした。
今は違います。
違う理由がモチベーションです。
過去、私はある人を救いたかったのです。
何度も泣きました。
セッションで、他人は救える。
何人助けられても、自分が救いたいたった1人に、手が届かない。
なぜなら、私が彼女の娘だからだ。
娘でなければ、救えたのに。
私に命をくれた人を救えない。
何人助けられても、全く意味がない。
たった1人が救えない。
やがて、諦めがつきました。
どのみち、自分は、誰も救えない。
誰でも、自分を救うのは自分だ。
自分の無力さを受け入れたのでした。
救えると思っていたことが傲慢なのだと。
彼女を救えないのではない、自分は、誰も救えない。
そして、その望みを、私はしばらく忘れていました。
しかし、今、チャンスが生まれようとしている、無理だった条件が外れる可能性が出てきた、と気がついた瞬間まで。
私は、未来で、彼女の娘でなくなる可能性があるという可能性に気づいた瞬間まで。
娘でなくなれば、手が届く。
他人と認識してくれれば手が届く。
私が持つ祖父から受け継いだ遺伝的リソースのひとつは、誰にも好かれやすいことだ。
年長者は特にそうだ。
きっと彼女は、他人の私を好きになる。
そして、その時、私ははじめて、彼女に手が届くと。
すぐにではないけれど、その時期、私は母を失うと同時に、唯一、自らが救いたいというアウトカムを持つクライアントのセッションを、サポートをさせてもらえる可能性がある。
必要条件が揃ったら。
他人になれたら。
ああ、そうか、、、、。
諦めてはいなかったんだな、、、と、私は、望みを抱き続けてきたことを自覚しました。
他人になれる可能性がある。
少し先の未来で。
信じがたい心の動きでしたが、その気づきは、私に希望をもたらしました。
絶望と希望は同じ場所にある。
どちらを見るかは自分次第だ、と、自分によく言い聞かせ、私は、2年後を待つことにしたのでした。
すぐじゃない、それまで、いらんことをしないように、タイミングを見間違うな、まだ、今じゃないとよくよく自分に言い聞かせながら。
20年以上待った、それを台無しにしないようにと思いながら。
それまでに少し勉強しておく必要があることを書き出したのでした。
今、できること。