「私」というシンボルの扱い:それがあるという大前提で発展している技法を、それがないことが多々ある言語で使用する際の運用

先月まで、私は、数回ほど、シンボリック・モデリングのトレーニングに参加していた。
それは、ひたすら、セッションをしたり、観察したり、受けたりするものだった。
そして、互いにフィードバックをして、それぞれの課題を見つけていく。
1回のセッションは20-50分前後くらい。
セッションのテーマは自由。クライアント役の人が自由に決める。

そこで、私は面白い体験をした。

全ての回ではないのだが、何回かは、日本人のクリーン仲間が一緒だった。
日本人を相手に英語でセッションするのは何度か経験したことはある。
けれど、このとき、私は、面白い経験をした。

私は、自分がファシリテーターをしたときに、「私」を見落とした。

日本語でも英語でも、「私」、"I"はシンボルだ。

そんなことは知っている。最初に習う。
「体のパーツ」と「私」はシンボル。
名前のコード化は、しようと思えば別にできる。
(しなくても、そのまま使える)

けれど、私は、”I"を見落とした。

そして、そのせいで、私はバインドを見落とし、レメディをアウトカムと間違えた。
どちらにしても時間切れだったので、もし気づいていても、私はその日は同じようにしたと思うけれど、見落として見間違えたのと、わかっていてそうしたのとは、天と地ほどの差だ。

それで、そのセッションをした日、トレーニングの後に、私は、記憶をたどった。
自分が書いたメモを見ながら、「そこで何が起きたのか」、「それは、どこから来たのか」を私は探った。

そして、私はそのセッションで、普段、絶対にやらないことを自分がしたことに気づいた。
最初の一文、私は、ある単語が聞き取れなかった。
そこで、普段なら、わからないままいく。
私が聞き取れなかった言葉は形容詞だったから、表していたとしても特徴であって、そのとき、意味が理解できなくても、後からメタファーにはなる。
だから、普段の私ならば、問い返さない。
けれど、その日、私は、なぜか自分のための質問をした。

(これは、フィードバックのときに謝罪した。自分のための質問をしたこと。
 「それは何?」と普通に尋ねなさい、と、トレーナーに言われた。)

そして、そのことで、私は、自分がその人の英語を頭の中で日本語に翻訳しながらセッションをしようとしたことに気づいた。

普段は、それはしない。
それをし始めたら、私は混乱してセッションができなくなる。
何度か書いたけれど、私は、「音」があれば、クリーンランゲージのセッションはある程度できる。メタファー・ランドスケープは特にそうだ。
そうしなければ、私が言葉の意味を把握しようとすると、わからないことだらけになってしまう。私のボキャブラリーは、ものすごく偏っているからだ。
最近、少し状況が変わってきたが、私が英語を必要としたのは、クリーンランゲージのためだけなので、それ以外のボキャブラリーはものすごく少ない。

ともかく、私は、無意識にその人が話した言葉の意味を理解しようとした。
これは、日本人は、誰かに話すときに、「相手が理解できるように話そうとすること」というのが私の中にあったからだと思う。聞き手中心の言語のくせ。
だから、理解しようと無意識にしたのだろう。

そして、そのとき、頭の中の翻訳で、「私」を省略していた。

・・・ということに、私は気づいた。

相手が日本人だったから。
私も日本人だから。
そして、時々、他でも顔を合わせるから。
それで、私の前提が、そこに入った。

ああ、やってしまった、と私は思った。

その人は「I」と言っていたのに、私は「私」を頭の中で省略した。
それは、私が、日本語の頭のまんまで、英語のセッションをした数少ない貴重な経験になった。
数少ないというか、たった一回の経験。
(ある意味は、とても成長したということ)


もしも、私が頭の中で、勝手に翻訳したのではなく、日本語同士でのセッションだったら、私は絶対に見落とさなかったと思った。
また、日本人が、メタファー・ランドスケープの中で「私」といえば、それは、発展させるかどうかはともかくとして、500%、シンボルだ。

そもそも、「私」はシンボルだが、それでも500%シンボルだ。

もしくは、英語のままの頭でも見落とさなかっただろう、と思った。


私はそのトレーニングはもっと早く受けるように言われていたのだが、「PROを英語でするのがまだ難しい。いくらトレーニングといえども、クライアントにいいセッションを提供したいので、もう少し英語が上達してからにする」と私は、受講を先延ばしにしてきて、そして、ようやく受けたトレーニングだった。
英語、関係ないやないか!と私は、自分に突っ込んだ。


ともかく、この出来事が、私に大きな気づきをもたらした。
そして、1分くらい落ち込んだ。
そして、「何が起きればいい?」と自分に問いかけて、「英語の時は、相手が誰でも、頭の中は英語でやる。見落とすくらいなら、その方がいい」と決めた。(まあ、あんまり機会もないだろう。)


話は今日になる。
少し話が飛ぶようだが、内容は同じく「私」について、だ。

今朝、私は、ここ最近の一連の流れの中で、「最初の最初」に舞い戻った。

今朝、私が思い出したのは、M先生が言った一言だった。

この人は、クリーンランゲージのことなど知らなかったし、その頃、世にコーチングなどまだなかったけれど(少なくとも日本には)、彼が私に教えたことは、その後、私が習うことになったことと変わらなかった。言葉は違ったけれど、彼はアウトカム志向だったし、彼は、要約はしたが、話し方はものすごくクリーンだった。
熟練者の人々がたどり着く境地は、似たところがあるのかもしれない。

その彼が、私にした質問を、私は思い出した。

「カトさん(彼は、私をこう呼んでいた。あるワークショップで、私が自分につけたあだ名をその後もずっと彼は気に入って使っていた)。
カトさんのその感情は、カトさんのもの?それとも、他の誰かのもの?」

当時、私の自我は弱いなんてもんじゃない、M先生いわく「君の自我はどこ?僕には、君には自我が無いに等しく見えるけど」状態だった。

この自我は、日常で使われるエゴ(自我)とはまた少し意味が違い、他者と自己との境界線の役割をして、その人を守るものだ。


「あなたのその感情は、あなた自身のもの?それとも、他の誰かのもの?」

この質問は、私には、当初、全く意味がわからなかった。
「は?」と私は思った。

そのまま、「は?」と言ったので、M先生は「その反応は初めて見たね。カトさんは面白い人だねえ」と言って笑っていた。

だって、自分のものではない感情が、自分の中にあるなんて、そんなことある?

それなら「私の感情」はどこ?

(その後、自分のものではない感情が、私の中にあることを発見した私は、「わお!」と驚くことになる。)



そして、話はまた飛ぶ。

なぜ、私が、「私」にこだわるかというその理由の一つに気づいた。

そして、英語では語られないが、日本人にはあるだろうクリーンランゲージの効果の一つを再確認した。

前から気づいていて、ここにもちらっと書いた記憶はある。
これは仕事のセッションでクリーンランゲージを使用していて、「ああ、これ、効果の一つだな」とわかったこと。
それと「私」がリンクしているとはっきり気づいたのは未だ。

効果の一つは、自我の強化と、自律(自立)の促進だ。

クリーンランゲージは、自、に、直接的に働く。
言葉を変えれば、「私」をリソース化する働きだ。

・・・・

私が「私」にこだわる一つは、「私」がそこにないと、その人のメタファー・ランドスケープを構築するシンボル、しかもそのメタファー・ランドスケープを生み出している源を無視した状態になるからだと気づいた。

もしも、クライアントの自我がきちんと成熟した状態であれば、私と言おうが言うまいが、それは言葉だけの話だ。
そうでなければ、話は変わる。
そして、「滅私」が時に尊ばれる文化の中では、自我は成熟しにくいこともある。

言葉から成熟する自我っていうのも、あると思うのですね。
「私は」と言い続けるだけで、変わっていく思考を何度も見たことがあるので・・・。

成熟するというのとは少し違うのかな、アクティベイトする、スイッチを入れる、活性化する、そんな感じか・・・。


そして、こちらが、クライアントの「私」をどこまで尊重できるかで、それはおそらく変わる。

それを、サイコアクティブになる前の状態にしておけるかどうかで変わる。
そんな気がする。

英語であれば、「あなたは何が起きればいいのでしょう?」という質問の後、一番最初に登場するシンボルは、もうほとんど100%「私」だ。

ほぼ全ての話は、「私」というシンボルから始まる。(たまにItとかから始める人もいる)
英語話者の皆さんは気づいてないと思うけど。当たり前すぎて。
そうしなければ、文章が成立しないから。


おそらくは、日本語と英語のクリーンランゲージにある、大きな違いを産んでいるのは、この「私」というシンボルの存在だろうと、私は気づいた。

気づいたというか、言葉になった。

これは、シンボルの身体化(embodied)にも、おそらく影響があるのではないか?、と推測する。


「私」がいなければ、メタファー・ランドスケープは成立しない。
「私」の体験、「私」の記憶、「私」の知覚、「私」の認知、から、メタファー・ランドスケープは生まれる。

他の誰のものでもない。
だから、ファシリテーターは介入しない。

それは、「私」のものだから。


ところで、私の経験では、その差が現れるのは、サイコ・アクティブになる前だ。
メタファー・ランドスケープの中に入った後は、英語のセッションと日本語のセッションに差はないように感じている。
今、魔法使いに質問しているのも、最初のPROの段階の話だ。
メタファー・ランドスケープに入る前の話。

だから、「私」の話は、頭、の話。
最初に登場するシンボル。

「私」という言葉は、日本語に存在する。
ただその使用は省略が可能。
あなたも省略可能。

そこに存在する日本語、日本人、というフレームの話だろうというところまではたどり着いた。


「私」というシンボルの扱いが、英語と日本語が持つ大きな違い。
そして、クリーンランゲージには、絶対に必要なのが、「私」というシンボル。
発展させるさせないはともかくとして。

「そして、「私」というシンボル、それがないことが多々あるとき、あなたは、その「日本語のクリーンランゲージ」に、何が起きればいいのでしょう?」

私は、この数年、それを考え続けてきたのだと、ようやく自分が何をやっているかが理解できた。やっとわかった。


私は、「私」というシンボルの扱いをずっと考え続けてきたのだとわかった。
それがあるという大前提で発展している技法を、それがないことが多々ある言語で使用する際の運用について考え続けてきたということ。


ああ・・・スッキリした。


M先生まで助けに登場するなんて、「私」の話は大事(おおごと)なんだわね、きっと。