続き。

「そして、Yさん、あなたは何が起きればいいのでしょう?」


私は
、(自分は)中身と概念を線で結ぶのに時間がかかる(ことを知っている)。
そして、(私には)名称というラベルがなくても、記憶できる(自分の)脳の特徴があり、(私は概念と中身を結びつけようという努力をあまりしない。

自分自身には、(それが)必要ないことが多い(と私は知っている)からだ。
だから、(私は)(自分の)抱えている問題にも気づかないのだし、自分が何を探究しているかにも気づかないのだし。
私は)そこに、感覚があれば、それで、そのとき自分がしていることが「自分にとってどんなこと」なのか、見分けがついている

この数年は、私が物事を判断する基準に使用しているのは、「(自分の/私の)胸とお腹の感覚」だ。
私の胸の感覚を頼りに、私は物事を決めている。(=私の胸の感覚が、物事を決定する)

そして、(私が)そうし始めてから、驚くほど、(私の周りの)いろんなことが変わっている。

この(私の)胸とお腹の感覚には、(私の)メタファー・ランドスケープの中で、ここまでさまざまな記号(象徴/表象/symbol)名がついた。

(私が)したいことは、いえ、(私が)欲しいものは、今、(私が)書いたようなことをクライアントが話すときに、「私がかっこで省略したところ」を、「クライアントが、自分自身が知覚者または(動作)主体だと知覚または認識できているかどうか」が確認できる質問が欲しい。
もしも、クライアント本人が知覚、認識できていないのであれば、そこにクリーンな方法で、クライアントが注意を向けるのをサポートできる質問が欲しい。
それを、「クライアントが知覚者主体に言及しないときにする方法」が知りたい。

それが、が、日本語のクリーンランゲージに、起きて欲しいこと。


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ここまでの文章で(かっこ)で括ったところは、私は普段省略する部分です。
言語的な説明でいうと、主語と所有格の省略です。

このブログは、私のブログであり、そして、日本語が使用言語です。
私とブログの読者は一対一の関係性です。
だから、このブログを読んでいる人は、「私が自分のことを書いている」と理解できると私は判断して言葉を省略します。
日常会話でもそうです。

けれど、私は、自分が自分について語っていることを把握できています。

この、私(I)、私の(my)、をシンボリック・モデリングでは、「知覚者」と呼びます。
わたくし、「I」と「my」が「perceiver」なのは理解できておりました。
なおかつ、「I」は「agent」の場合もございます。
「私」と「私の」が、「perceiver」もしくは「知覚者」と結びついてなかった。
perceiver」の訳が「知覚者」なのは理解していますし、「知覚者」がどういうことを指しているのかも理解しています。

けれど、「私」と「私の」が、「知覚者」だという理解ができていなかった。
「私」は主語で、「私の」は所有格。
(これは、この後、初心者さんに説明するときに役に立つからまあいいことにします)

主語や所有格は、知覚者(動作)主体を表す」というこの一文が、私の中で成立したのが、本日です。
知覚者や(動作)主体は、「私」だけではありませんが、他のものについては、日本語の中でも省略されることはほとんどありません。
日本語話者が省略するのは、「私」です。

そして、「私」は、「私の世界」の大本をなすものです。
他のものとは重要性が異なります。
一番大事なもの。
「自己」(self)。

なんか、もう、ごっちゃごちゃになっていたのが、少しすっきりしてきました。
きっと、この6年がかりの話が終わりに近づいているからでしょう。


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ちなみに、私がここまでどうやっていたかを私は徹底的に振り返りました。

そして、私がここまでやってきたことは、「ファシリテーターが英語話者で、クライアントが日本語話者、そして、通訳が入ってる」ときに起きることとほぼ同じことということに気づきました。
これまで何度か見たことがあるそういうパターンのクリーンランゲージのセッションのことを思い出して気づきました。

クリーンランゲージのファシリテーターが通訳をしているときは、英語から日本語に戻すときには、主語と所有格を抜いていました。
これは通訳者はクタクタになるだろうな・・・と思いました。

全ての主語と所有格、特に一人称のものを全て口に出す日本語話者は、まあいません。
けれど、英語話者にそれを通訳するとき、そこに、主語と所有格が補われていました。
そして、英語話者のファシリテーターがした質問を日本語に戻すときも、通訳者がクリーンランゲージのファシリテーターではない場合、ほとんどの場合は、そこに、主語と所有格は残っていました。

ときに、ファシリテーターは、所有格を強調して発言している場合もありました。
「知覚者」に注意を向けたいからでしょう。
ところが、クライアントの元の発言には、「知覚者」に対しての発言はない。
ファシリテーターは、それは知りません。

そして、「あなたの」と問いかけられたクライアントは、ちゃんと「知覚者」に意識を向け、そして、そこにはいい効果があるように見えることが多かった。


これを、私は、「日本語と日本語」で、自分は無意識に、全く意識せずに、ここまで続けてきたことに気づいたのです。
「知覚者」に注意を向けたいときに。
クライアントによっては、「私」という知覚者には、全く言及しないことがあります。
「私」という主体が、一切登場しない人もいます。
そして、往々にして、「自分の知覚の認識」と「自分という主体」が行方不明な人がいます。
これは、精神的に病んでいる状態でなくても起こります。
なんとなく人生がうまくいかないことは多いかもしれませんが、日本社会にであれば適応できるからではないでしょうか。

セッション中、ジェスチャーがある人は、そこに言及がなくても対応できます。
欲しいのは、言葉ではありません。
欲しいのは、知覚、認識しているかどうか、それそのものです。
言葉にしていないだけなら、問題はないのです。


振り返ってみると、私が勝手に知覚者を補っていたのは、PROだけではありませんでした。
例えば、「どこにあるのか?」と尋ねて、クライアントが「多分、胸のあたり」と答えたとき。

クライアントの目線が「自分の胸のあたり」にあるか、クライアントの指が「自分の胸のあたり」を指していたら、私は指で語ることができます。

その胸のあたりを指差しながら、「そして、〜」と続けて質問をすれば、それで、「知覚者に言及がないこと」はフォローができます。

ところが、クライアントが「胸のあたり」といって、真上を向いたりすることがあります。
このとき、クライアントが表に表していることに、「自分の胸のあたり」で知覚していることを示しているものがない。
もしかしたら、頭の真上にユニコーンでもいて、そのユニコーンの胸のあたりかもしれません。
もしくは、その胸は、頭の上にあるのかもしれない。

クライアントが、自分の胸で知覚している確証がない。
そして、クライアントがそれを認識できているという確証もない。
「多分」と言ってますから。

「その胸はどこにありますか?」と尋ねてもいいのですが、一般的に日本人が体のパーツをいうときは、「自分の」体のパーツです。


そういうとき、私は、無意識に、「そして、そのあなたの胸のあたり、〜」と、「あなたの」を自分が付け足して、知覚者に意識を向けるようにしていたことに気づいたのでした。

クライアントは、「私の」とは言わなかったけど。


魔法使いは、これまで私がしてきたこと自体は、問題がないと言いました。
そして、今、しようとしていることは、それを「クリーンに行う方法を探し出すこと」



すると何が起きるのか?


わかんないけど、探し出して、それから、何が起きるか見てみよう!という感じ。