かけがえのない

 

話は続いています。


この1週間ほど、かなり意識的に「誰?」という質問を使ってみている。

文脈的にクリーンだと判断できるところで。


私が提供しているクリーンランゲージのセッションは二種類あって、一つは、リソースワーク、もう一つは、「あなたは何が起きればいいのでしょう?」から始まるワーク。



そして気づいた。

私が使っている「誰?」の質問は、3つある。


誰が

誰に

誰を



全て、答えが「私」だと、文法的、論理的に推測できるところで。


そして、答えが「私」だった場合、次の質問の構文に、「私」を入れこんでいる。




私がこの1週間試してみたのは、「これは自分のことを話しているな」とわかる時でも、私が判断しないで、全て確認するやり方だった。


回数は1セッションあたり、2-3回が平均。



そしてはっきり確認できたことには、身体のパーツに関しては、ただ、パーツを言うより、「あなたの〈身体のパーツ〉」という方が、クライアントの反応が明らかにいいということだった。



身体化した体験にしやすい。


誰の身体化した体験なのかといえば、それは、私の、あなたの、体験だから、そこに注意を充てる(directing attention)のは、技法の意図から外れないだろう。




私の潜在意識は、「あなたは何が起きればいいのでしょう?」を魔法の呪文だと思っている。

シンデレラに登場した魔法使いが使う魔法の呪文だ。


それを問いかけられたあと、口にしたことが全て現実になったからだ。

少なくとも、まずは、メタファー・ランドスケープの中で。



その場面を振り返ろう。


魔法使いは、魔法を使った。


そこにいたのは、魔法使いだけではない。



そこには「舞踏会に行きたい。でも、ドレスがない。馬車がない。靴もない」シンデレラがいた。



望むその人、願うその人、つまり、私やあなたがいてはじめて、魔法の世界は成立する。



そこには、私、あなた、が、必要だ。



言葉になっていないだけで、ほとんどの場合、そこには私とあなたがいる。

そこに、私の願い、あなたの望みはちゃんとある。


けれど、人は時に、他人の望みを自分の望みだと信じこむ。これはある。

若い人ほどある。

親の望んだその人への願いを、自分も望んでいると信じこむこと。

そして苦しむ。


「素直ないい子」「人に優しい愛される子」は、わかりやすいかもしれない。

場所が変われば、リソースは問題にもなる。



あなたが、私が、望むことを、望んで構わない。


魔法の世界の主役は、魔法使いではない。


望みを抱く人がいて、はじめて、魔法の世界は成立する。



つまり、私は、主役を引っ張りだしたいのだ。

恥ずかしがり屋の主役を、舞台の上に上げたいのだ。



効果があるもなにも、まずは、効果を体現するその人におでまし願わねばならない。


それは、誰にもある、「目には見えない私」「目には見えないあなた」だ。


ただひとり、ランドスケープを発展させることができる、そのランドスケープの支配者、管理者、だ。



あなた、私、この世にただひとり、かけがえのない、あなた、私の存在なしに、ランドスケープを発展させるのが、私は嫌だったのだ、と、私は気づいた。



それは、あなたの人生で、あなたのものだ。



かけがえのない、あなたのたった一つの人生。



あなたなしでは、セッションが成立しない。