「私」という知覚者、自己(セルフ)、シンボル

いや、話は知覚者だけじゃない。
やはり「私」というシンボルも関係する。
そして、「自己」も関係する。

話は、「私」または「私の」で表現される知覚者と、「私」というシンボル、そして、「私という自己(セルフ)」の3本立てだ。


昨日、Hさんと質問のシュミレーションをして、私たち2人が出した答えは、今、しているのは「私」という言葉にまつわる3本立ての話ということだった。


1)「私」というシンボル

「私」というシンボルが欠如したときに起きることを、私自身がファシリテーターの体験として持っていたからだ。
ここにも少しだけ書いた。

例えば、「私はXになりたい」という類のクライアントが望むアウトカムが存在するとしたら、それは「私=X」の状態になれば、アウトカムは達成だ。
そのアウトカムの達成には、「私」というシンボルが必ず必要だ。

また、「私はXしたい」という類のアウトカムが存在するとしたら、「Xする」には「X」を行う「私」が必要だ。


それを、「Xになりたい」、「Xしたい」とクライアントが表現した時、話の最初から、そのアウトカムを達成するために必要な、しかもむちゃくちゃ重要なシンボルが、言葉としては一つ欠如した状態でセッションを始めることになる。

クライアントのアウトカムを達成するには、「私」が必要なのだ。

その「私」は望みの知覚者であるだけではなく、望みを達成するために欠かせないシンボルだ。


同時に、ファシリテーターと契約をかわすのもまた、「私」だ。

「私」というシンボルを、セッションの中で使用したければ、クライアントの口から「私」と一度でいいから口にしてもらう必要がある。
クリーンランゲージのルールに、忠実に則っていくなら、その必要がある。

(確認してみたら、私だけでなくHさんもそうだったけれど、おそらくは、現場でクリーンランゲージやシンボリック・モデリングを仕事で使っているファシリテーターやコーチは、皆、自分で言葉を足しているのではないかと思う。そうでないと、おそらくできない。)


2)「知覚者」の「私」や「私の」

こちらも無茶苦茶、重要だ。

英語のセッションの中で、「私」や「私の」の使用頻度は、ものすごい。
おそらくは、「AND」に次ぐ回数ではないかと思う。
それが、もしも、クライアントが「私」を一切使用しなかった場合、そして、ファシリテーターが「クライアントの使用した言葉そのままだけを使う。こちらからは言葉は足さない」というクリーンランゲージのルールを厳格に守ったとき、日本語のセッションでは一度も「私」や「私の」は登場しないことになる。

今回、改めて、ジェームズやペニーのセッションの動画をいくつか見直してみたが、彼ら、クライアントの言葉を繰り返すときに、「your」とか「you」にアクセントを置いていることがちょいちょいある。

例えば「あなたの胸」というときに、胸にアクセントをおかずに、「あなたの」を強調するような感じ。

彼らが意識的にやっているかどうかはわからないが、(英語話者だから!)、胸に注意を向けると同時に、知覚者「私」を刺激してる。

(おそらく、私が無意識に「あなたの」と言葉を足して続けていたのはこれと同じこと。おそらくは、彼らのセッションが頭のどこかに残っていたのだと思う。しかし、これはクリーンではない。)


知覚者については、クライアントがジェスチャーをしてくれれば、「私の」は不要だ。
ジェスチャーで同じことができる。

もしくは、クライアントが知覚動詞を使っていれば、知覚の場所を確認することで、同じことはできる。
例)クライアント「私はXが見たい」→「その見たいはどこ?」

厄介なのは、ときに、知覚が体の外にあることだ。(現実ではありえないが、メタファーの世界の中ではある)
しかも、それなのにクライアントは、「胸」とか言ったりすることだ。
何を言っても自由で、私は、クリーンランゲージのそこが一番好きなのではある。

でも、「その胸は、誰の胸?」・・・もう、頼む、聞かせてくれ!という感じが今、書いていてすごく強くなった(笑)

その胸は、体の外にいるユニコーンの胸かもしれない。
・・・あるんですよ、本当に。

そして、私は思う。
さて、「私」はどこだ?
Xが空想上の出来事でない限り、そして、もしもクライアントが本当に「見たい」のならば、知覚者は、少なくとも一つは、クライアントの中に存在していただく必要がある。
そうでなければ、クライアントが「身体化された経験」ができない。


または、クライアントが目をつぶっていたりする時だ。
そして、ジェスチャーもない。
これは、とっても厄介。


3)同時に、これは、ここまで気づいていなかったけれど、もしかしたら、という考えが一つ新たに浮かんだ。

それは、私自身のクライアント体験について、英語と日本語の違いだ。

英語でクライアントをするときの方が、私の発想は、創造性に富んでいる。

それを、私は、当初は、「英語の世界には何にも私にはしがらみも問題もないから」と思っていた。
けれど、違うのではないかと思った。

創造性は、「私」が持っている。
この「私」は「私という自己(セルフ)」だ。


「私は」「私が」を使用するしない場合、2つのケースがあると感じている。


片方は、ただ言わないだけで、自己(セルフ)と自我(エゴ)はしっかりしている。
このパターンは、主語が抜けているだけで、話は、自分の話をしていることが多い。

もう片方は、自己(セルフ)と自我(エゴ)が弱くて、少し刺激を必要とする。
このパターンは、主語が、他者であることが多い。
「自分が自分の話をしていないこと」に気づいていないことが多い。

この両者では、同じ話の主語が変わる。
対人関係の話の時は見分けが付けやすい。
後者は、相手を主語に話すからだ。

「誰?」が質問として問いかけられるだけで、もしかしたら、クライアントによっては、PROの時間は短くなる可能性がある。

そして、一度でいい、セッション中にクライアントが「私」と言ってくれたなら、そのあと、セッション中、その人の「自己(セルフ)」を少しだけ刺激して、その人が考えたり、生み出したりすることをサポートできる。

一度でいい。

「私」と一度だけ言ってくれたなら。


「誰?」の質問が欲しい。


私とHさんの意見は同じだった。


私には、もう一つある。
これを、初心者の人も使える状態にしたい。