日本語のためのクリーンな質問の洞察(3):デイビッド・グローブのロジック

続き。

昨日の朝、日本語で書いたことを英語にして説明しなければならないと気づいた私は、頭をまとめるのもそこそこに、レポートを書いた。
ここまでの経緯と、自分の考え、その根拠になる経験。

そして、たいして見直しもせず勢いでそのまま送った。
この後は、彼らの助けがなければ無理なのだ。
彼らのモデルの中で使う質問だ。
誰が最も合う質問を知っているかと言えば、それは、彼らだ。

だから、私は、いつも、奇跡だと思うのだ。
モデルを作った人に会えたことが。
しつこいようだが、私は、キリストにも、パウロにも、ブッダにも、プラトンにもアリストテレスにも会えなかった。
でも、ジェームズとペニーには会えたのだ。

デイビッド・グローブには会えたとしても、おそらく私の脳みそでは、彼が何をしているか、言語化しては理解できなかっただろう。
ペニーとジェームズがまとめてくれたから、私は今、ブログで、こうやってクリーンランゲージのことを書くことができる。シンボリック・モデリングのことを書くことができる。

誰でも、教えられるように、誰でも、使えるように。
彼らは、モデルも生み出しているが、言葉も生み出した。
クリーンランゲージを説明する言葉だ。
デイビッド・グローブ自身は、文章では、ほとんど説明を残していない。

私たちが今読むことができる、デイビッド・グローブの言葉のほとんどは、彼から指導を受けた人たちが、書き起こしたものだ。(だから、デイビッド・グローブの言葉は、微妙に違う表現が割とある。話し言葉だから。)

もはや、どれを彼が言った言葉かどうか辿ることすら、「キリストがそう言ったかどうか」を考えることくらいナンセンスなことなんだろうと私は思う。

それよりは、その言葉がどんな働きをしているか、に、私は興味がある。
質問訳もそうだ。
説明もそうだ。

私の翻訳には、私自身のこの考えが、大きく影響している。
説明は「学習サポートのため(機能)」
だから、なるべく、自然な日本語に訳したい。理解しやすいように訳したい。
頭の中に残るのが、日本語の表現ではないように。
読み進めるのが苦ではないように。
文章を読んだ時のその人の理解が、その人の言葉で、頭の中に残るように。
私が訳しているのは、いわば教科書やそれに付随するものだ。

質問は「クライアントに起きることのため(機能)」
質問は、ファシリテーターがする数少ない選択の一つだ。
ファシリテーターがしているのは、「どの言葉について注意を向けるのか」そして、「どの質問を使うのか」、その選択だけだ。
質問は、ファシリテーターが、クライアントにできる数少ない手助けの一つだ。

私が、クリーンランゲージやシンボリック・モデリングの周囲にある言葉に携わるときに考えているのは、自分が選ぶその言葉の機能、それから、それが、言葉を受け取った側にどう作用するかだけだ。


(ブログは違います。好きに書いている。これは、頭の中をオープンにしているだけ。)


そして、今朝、目覚めた私の頭の中に、今度は英語が浮かんだ。
今、継続中のInsideClean シーズン4の最初の最初に登場したスライドにあった言葉だ。

I‛m looking for what‛s not there,
that needs to be there,
for what is there
to make sense”

The logic of David Grove
From insideClean



私は、そこに無い物を探している。

それは、そこにあるものが

理にかなうよう(意味を成す/make sense)に

そこにあるべきもの。


デイビッド・グローブのロジック



デイビッド・グローブのこれは、メタファー・ランドスケープの中の話だと思うが、「何か足りない」という思いが、私の中にはあって、「そこに何かあるみたい・・・」というのが、私が質問訳を探し始めた最初の理由だ。

当時、こんな言葉はちっとも知らなかった。

基本的に、日本語になっていないものは、私は知らなかった。
そして、その頃、この言葉は、まだ、日本語にはなっていなかったのだ。


やがて、その思いは、「みたい」から「何かある!絶対ある!」に変化した。


話は、最初から最後まで、主語だったのだと気づいたのは昨日のことだ。


「そこにあるべきもので、そこにないもの」、それは、主語だったのだと。


クリーンランゲージのこれは全てのクリーンランゲージの技法で、ファシリテーターやコーチ(名前は他にもあるかもしれない。テクニシャンもあったかな?)が行っている作業から、心理学的な要素を全部取り払って説明するなら、それは「クライアントが言った言葉の中から、次に自分がする質問の主語を選択して、そして、質問すること」だ。

やっているのは、セッションの最初から最後まで、この一つだけだ。
作業自体は、難しくもなんともない。
これだけだ。
「質問に使う主語を選択して、質問すること」


この選択基準が、技法によって異なったり、そのとき技法を使用している意図によって異なるだけ。
変わるのは選択基準で、やっていること自体はいつでも同じ。


クライアントの言葉をよく聞く。


次の質問に使う主語を、その言葉の中から選択する。

質問する。


質問自体も、自分では考えていないし、クリーンな質問は数が少ない。
バリエーションはいろいろあるが、主に使われているのは、初心者が習う質問のうちの4つだ。

シンボリック・モデリングであれば、セッションの8割は、その4つがあればできる。


作業自体は、ただ、これだけだ。
こんな簡単な技法を、私は他に知らない。

最初に覚えるのは、質問12こ。
そして、覚える作業は、聞く、選ぶ、質問する、の3つ。

ただ、これだけ。

(わからなくなっている人は、話を複雑にしすぎているところはあるかもしれない)



言葉を選ぶ選択基準についても、シンボリック・モデリングは主に4つしかない。


クライアントが望んでいるアウトカム
リソース
クライアントが提案しているレメディ

プロブレム


そして、眼を凝らして(耳をそばだてて)探し出すのは、いつでも、この中の2つだ。
アウトカムとリソース。
そこに集中しているから、アウトカム志向。


もちろん、問題(プロブレム)や一時的な救済策(レメディ)も登場するけれど、そちらにする質問は、定型で、当初は考える必要がない。
(まれに、パターンを理解するためにわざとプロブレムを発展させることはあるけれど、それは、最初はやらない)



アウトカムとリソースを見つけて、その言葉を選んで、質問の中にアウトカムかリソースを入れて、質問する。


シンプル。


アウトカムとリソースは、残り2つよりずっと見つけやすい。
よかったよね、レメディを探して質問しなさいという技法ではなくて。
レメディ、ややこしいんだもの・・・と私はいつも思う。



探すものは、アウトカムとリソース。

クライアントの注意を向けるものも、アウトカムとリソース。




そのために、必要なもの。


質問の主語。



まさか、デイビッド・グローブも思ってもみなかっただろう。
主語なくして会話できるエスパー集団の人々が、クリーンランゲージを使う未来がやってくるとは。



耳を澄まして聞いてみるとすぐ気づくと思いますが、主語は使う人と使わない人がはっきりしています。
使う人は使いますし、使わない人は本当に使わない。
特に、「私は」「私が」は人による違いが顕著です。



クリーンランゲージやシンボリック・モデリングが扱うのは、「個人の」「個々に固有の」「独特な」「個性的な」類のものなので、「私は」「私が」の世界です。


(チームやグループ用のクリーンランゲージもありますが、それにしても基本は同じです)



そして、私が今、辿り着いた場所は、2016年の私が立っていたのと同じ場所。


「主語はいるでしょ」の場所。


そして、テーマも同じです。

最初に私が眼を向けたのは、そこに注意を向けるための質問。

「私」に注意を向けてもらうための質問。


そして、今、私が眼を向けているのは、「そこにあるべきなのにない<私>」を確認する質問。

つまり、その望みは、あなたの望みでいいですか?ということを確認する質問。


「私」


あるべきなのに、そこにない、と、私が眼を向けていたのは、最初から最後まで、「私」


絶対に、その出どころが「私」かどうかを確認しておかなくてはいけないものは、その人の望み。


これは、シンボリック・モデリングの定義にも関わります。
シンボリック・モデリングが他とは違うのは、その「アウトカムの定義」です。

これは長いので、ご興味ある方は、私の夏休みの宿題だったものを読んでください。


だから、「私」は、本当に重要。


その望みは、コーチが「あなたの望みはこれですね」と思ったものではちょっとまずいのです。
これは、「あなたの望みの中で、前向きなのはこれですね」とそう大して変わらないはずなのです。


(まあ、気づいてなかったんですけどね。ははは〜!
 気づいた後、だいぶ自分にショックを受けて、「私、何をやってきた?!」と3分くらい落ち込みました。)



というわけで、現在、私より素晴らしい頭脳を持っている人々とやりとりしておりまして、私が、「この質問は使えますか?」と尋ねたところに、「こんな質問もあるよ」と複数の質問が返ってまいりました。
知りたいですよね?


私も、できるだけたくさんの方に試していただきたいです。
だから、隠すわけではないのですが、その前に。


使用場面は、PRO。
最初のアウトカムに対しての質問です。

まだ、クライアントがサイコ・アクティブになる前の段階です。
(サイコ・アクティブになった後は、主語がなんであれ、クライアントは自分のことしか話していないと思いますので、セッション中に登場するPROには不要だと思います)


探究しているのは、もしも、クライアントが述べたアウトカムの文章の中に、一度も「私」が登場していなかったときに、使用する追加質問です。いつも必ず必要ということではありません。


例えば、


ファシリテーター:あなたは何が起きればいいのでしょう?

クライアント:そうですねえ、幸せになる方法が見つかるといいですねえ。


このような場合です。


ほぼ全ての日本人は、おそらく「そうか、このクライアントは幸せになる方法を見つけたいんだな」と即座に理解するのではないかと思います。
普段は、それでいいですね。
私も何も、日本社会に食ってかかりたいわけではありません(笑)
はっきりさせないことには、それなりにメリットもあることはよくわかっているので、日常にはなんら意見はありません。好き好きで。
そして、多分、このままで何にも問題ありません。

ファシリテーターとクライアントは2人で話していて、ファシリテーターには、「クライアントは自分のことを話しているとわかっている」ので、問題ないですね。「あなたは」と尋ねていますしね。


話は、シンボリック・モデリング。




「今、ちょっと忙しいから、後で読んで返事を送るよ。忘れていたら、遠慮なく連絡してくれてかまへんからね」(私の頭の中では、英語はほとんど関西弁)


そうメールを返してくれた彼らに、私は、「はい!本当〜に、今回は、助けてもらう必要があるので、あなたたちが忘れていたら、私がお知らせします!」ともう押しの強さを発揮してみました。この文章は、もしかしたら、失礼だった可能性がありますが、それは英語力のせいです。

だって、本当に彼らは忙しいので、5ヶ月くらい忘れられることがあるんですもの・・・。
そうしたら、朝、起きたら、質問を描いてくれたメールが届いていました。なんてありがたい。



今日は、私はこの後は、時間がありません。

翻訳している時間がない。

そして、質問を見て気づきましたが、これには、フローチャートがいる気がします。
というわけで、それをまとめたいと思います。



翻訳の必要がない質問だけ先に。
「Xしたいというとき、Xしたいのは誰ですか?」は、文脈的にはクリーンでOKでした。

でも、もっとスマートな質問が返ってきましたので、私は、それをまとめたいと思います。


それから、「誰」を使ったクリーンな質問(デイビッド・グローブが作ったもの)はない、ということでした。

やっぱりな!だって、デイビッド・グローブは、英語話者だもの!



というわけで、続きます。