日本語にしかないクリーンな質問のための洞察(1):その手がかりから、扉だけは開いた気がする日

2つ前からの続きでございます。

自分自身の洞察。


「完全に新しいクリーンな質問を探してごらん」と、去年の夏だったか、今年だったか、SNSのコメント欄で、魔法使いのジェームズ・ローリーは、私に言った。

日本語には、日本語にしかないクリーンな質問が必要かもしれないよ、と。

(ここにも、その時の私の気持ちは書いたような気がする。
なんとなく感じていたけど、「クリーン」って名前を手放さないとできないのかなと思っていたので、ああ、クリーンな世界の中に加えてもらえるんだと確か泣いた気がする。)

そして、教えてくれた。
ランプから飛び出た優しい妖精のデイビッド・グローブは、彼の人生の最後の25年間を、クリーンに費やしたと教えてくれた。時間配分まで書いてくれていた。

そして、魔法使いは、「君が長い時間のスパンで考えてくれていてよかったよ」と書いて、私は「ドイツの人は10年、デイビット・グローブは25年。うわ、時間が伸びた・・・」と悲鳴を上げた(笑)


その時から、私の頭の中には、そのことは常にある。
「完全に新しい日本語のためのクリーンな質問」を見つけること。


その後、私は、PROについて、元々の英語を確認しに行き、それから、自分がもう何年も前に翻訳したものを見た。

そして、「おい、ひどいな」と思った。
何がひどいかというと、当時の私の翻訳だ。

それで、それを一から翻訳し直し始めた。
翻訳もまた、私にとっては「言葉を生み出す作業」だ。
元の文章は英語だ。
どのように、辞書通りに訳そうとも、そこには、翻訳者の解釈が入る。

私の翻訳の意図は、「学習サポート」「文章を読んだ人が自分の頭で、自分がどのように理解しているか、自由に考えらるように」だ。

そして、記事ごとに何を大事に翻訳すればいいかは、魔法使いが、記事の最初に書いていることが多い。
「自分たちはこういう目的/意図で、この記事を書いています」とか、「この記事のポイントはここです」とか、最初に書いてあるので、その意図に沿えるような言葉を探す。

何年も前の私が訳したそのPROの文章は、「どういう意味なのよ〜、これ読んで意味わかる?」と本人がツッコミを入れたくなるくらいのものだった。
だいぶ、成長したかもしれない、と思った私は、再度一から、そのPROの記事を訳し直し始めた。


そして、私は、「あああああ〜!」と気がついた。
ずうっと、そうしてくれていたんだ!誰でもわかるように、誰でもできるように、ずうっとそうしてくれていたんだ!と、途中で気づいた。

ペニーとジェームズは、「モデルの作り方」をずっと、オープンに見せ続けてくれていたんだ!と。


そして、私は、そのことに、ようやく気づいた。


そして、私は、「あれ?」と思った。
そして、昨日書いたブログのことを思い出した。
自分が感じていたことが、魔法使いたちと似ていたからだ。

そして、翻訳を途中で一旦おいて、自分のブログを確認しに戻った。
昨日の朝の私は書いていた。

「私は分類は迷うけど、この文章への質問はわかる。

ただ、なぜ、その質問をすることにしたかの私の中の根拠が、非常に曖昧だということを、私は自覚した。」


そして、また、魔法使いの文章に戻った。
魔法使い達は書いていた。
彼らが、PROを考案した理由を。そして、どうやって、彼らが、PROを作っていったかを。

At the same time we noticed that we always seemed to have the choice to work with a client's problem or to invite them to attend to a desired outcome. Eventually we decided to model ourselves to find out: (a) How did we consistently detect when a client was attending to a problem or a desired outcome? and (b) How did we facilitate the client to shift to and maintain their attention on their desired outcome?  (COACHING FOR P.R.O.'s,Penny Tompkins and James Lawley)   

(日本語:まだ最終の訳ではありません。手を入れますけど、ざざっとした訳) 

それと同時に、私たち自身(ペニー&ジェームズ)は、「クライアントのプロブレムに取り組むのか、それとも、クライアントの注意をクライアントが望んでいるアウトカムに誘うのかかという選択をしているようだ」ということにも気づきました。最終的に私たちは、以下(a,b)をはっきりさせるために、自分たち自身をモデリングすることに決めました。 

a. どのように、自分たちは、クライアントが「プロブレム」や「望んでいるアウトカム」に注意を向けていると検知しているのか?

b. どのように、自分たちは、クライアントが注意を望んでいるアウトカムに向けるように、そして、その注意を持続させるように、ファシリテーションしてきたのか?

 

私は、もう一度、自分のブログに戻った。

そして、自分に質問した。

そして、私は分類は迷うけど、この文章への質問はわかる。

  • その「わかる」はどこから来たの?
  • どのように「質問がわかる」の?
  • わかる直前には何が起きているの?
  • その「分類は迷う」について他に何かある?


そして、ただ、なぜ、その質問をすることにしたかの私の中の根拠が、非常に曖昧だということを、私は自覚した。

根拠が非常に曖昧、そして、分類は迷う、でも、質問はわかる。
そして、質問はわかる。

  • その根拠はどこにあるの?
  • その分類はどこにあるの?
  • そして、そのわかる質問は、どこから来たの?


  • どのように、「私は日本語の質問を決めているの?」
  • 私に「この質問をすればいいよ」と合図を送ってくれているものは何?



そして、私は、土曜日の夜に、日本語でシンボリック・モデリングを使うファシリテーターの人たちが語っていたことを思い出した。

そして、「〇〇を改善したい、でも、手がかりが見つからない」という文章をもう一度思い出した。

そして、それから、自分が昨日書いた文章をもう一度読んだ。


そして、それから、私は、シンボリック・モデリングのセッション全体の流れを思い出した。


そして、去年の夏からここまでに、自分が数回SNSの中にある、クリーンランゲージのコミュニティに投稿したことを読み返しに行って、そこで、魔法使いとしたやりとりを読み直した。


そして、「シンボリック・モデリングはアウトカム志向のプロセスだ」と言うことを、もう一度、頭に叩き込んだ。


そして、思った。

絶対に見落としてはいけないのは、「アウトカム」だ。
クライアントが望んでいるアウトカムだ。

そして、間違えてはいけないのは、「レメディ」と「アウトカム」の区別だ。

アウトカムでないものを、アウトカムと判断した時、そこに広がるのは、その人が望んでいる世界じゃないから。

どうして、区別をつけているのかというと、区別をしたその後、メタファー・ランドスケープを発展させるからだ。


レメディの世界を発展させたら、それは、おそらく、「いつもの世界」だ。

多くの人は、問題を解決しようとはしている。いつでも。問題を解決したいとは望んでいることが多いように、私は感じている。


アウトカムのメタファー・ランドスケープは、「新しい世界」だ。



「日本語には、日本語にしかないクリーンな質問が必要かもしれないよ」


そして、私は、思った。
おそらく、このあたりまでは、もう、ジェームズには見えていたのだろう、と。
でも、きっと、何も言わなかったのだろう。


英語と日本語の大きな違いの一つは、「アウトカムとその人との関係性」だと、私は気づいた。これは、文章としての関係性だ。心の中ではどうであれ。扱えるのは、言葉になったものだけだから。クリーンランゲージなので。


そして、それから、私は、土曜の夜に、起きたことをもう一度復習した。
これは、動画を録画していてくれたから、それを最初から最後まで見直した。
そして、自分以外の人が何を言っていたか、特に、日本語でしか思考しないだろうと思われる人の話に耳を傾けた。


そして、それから、私は、この話は、11月に持ち越しだ、と思った。

ジェームズとペニーが、まさ〜に!PROのワークショップを10月にオンラインで、「日本語通訳つき」で開催するからだ。

そこには、シンボリック・モデリングを使う日本人が集まる。
みんな、セッションをする。



だから、今、私がすればいいことは。

翻訳するでしょ、PROの話を。

それから、自分でもまとめてみるでしょ。すると、私が何を手がかりにPROをしているかが、多分、わかるでしょ。


ああ、幸い、と私は思った。
私の感覚が合っているなら、おそらくは、日本語の質問が必要なのは、PROのところだ。

セッションをしていても、英語の時と、日本語の時で、違いが大きいのはそこだ。
メタファー・ランドスケープの話は、そんなに違いはない。
だって、個人個人、違うから。そもそも型などないもの。
ぶっちゃけ、毎回、やることは違う。
教えられるように、魔法使いたちが、型を作ってくれただけだ。
最終的には、型は必要ないはずだ。
まあ、そこまでいくには、先の長い道のりがあるけれど。


望んでいること、欲しいもの、広がっていくことをその人が望む世界、その世界の始まりを見つけ出すためのサポートをするための質問。

PROは分類するけれど、ともかく、それはなぜかというと、クライアントが「望んでいるアウトカムをはっきり言葉で表現する」ためであり、言語化をサポートしている。
この言語化はジェスチャーだったりもするので、非言語の場合もある。でも、表現。

表に表現すること。



頭が拡大し始めたので、ちょっと、散歩してこよう。


そして、考えるのは、11月。
それまでは、PROを徹底的に復習しよう。

彼らが、書いたものを読もう。
自分が何をやっているかを辿りなおそう。

彼らと自分、そして、日本語でだけファシリテーションするファシリテーターをモデリングしよう。

そして、そこにある違いを見つけよう。
観察するのは、クライアントではなくファシリテーターだ、と私は気がついた。
答えを知っているのは、この場合、ファシリテーターだろう。

(ああ、だから、コミュニティが必要なんだね、と私は理解した。一人、二人では、答えがわからないはずだから。)