DAY16: とりとめなく、モデリング、時間空間、視点、トライアログ、セルフ・モデリング、インフォメーション・センター
人は一人一人、異なる思考回路、異なる視点を持っています。
だから、使う質問は、全員クリーンな質問だけれども、視点、いわゆる目のつけどころは変わります。
この視点を、どれだけ効果的に自由に動かせるかは経験値と知識量によります。
感覚的には、クリーンランゲージだけではなく、対人支援の経験値も影響すると思います。
クリーンランゲージやシンボリック・モデリングなどの一連の技法のこの視点は、クライアントだけを見てはいません。
クライアントも含めたメタファー・ランドスケープを見ています。
シンボリック・モデリングでは、広い視野〜狭い視野まで使い分けます。
ときには、1秒を引き伸ばして、広げてみていることもあるので、物理的な広い狭いとは少し違います。
デイビッド・グローブの言葉を借りるなら、「空間と時間を歪める」作業をします。
まるでSF。
私はたまに、ファシリテーションしていると、相対性理論や量子物理学のバーチャル体験みたいな気分になることがあります。
ああ、ほんまに、時空は歪むのだなあと。
余談ですが、この1秒は、チョイス・ポイントという、クライアントが選択できる瞬間、選択肢がある瞬間のことが多いです。
選択の自由がある瞬間。
ここに注目できるようになったとき、ファシリテーションの深みが一気に増します。
私の感覚だと、シンボリック・モデリングは、心の視力を鍛える必要があります。
まっすぐに、あるものとないものを、ただ観る視力。
それは、理科の夏休みの「朝顔の観察」と似ています。
また「セミの孵化」の観察とも似ています。
空の雲にも似ています。
クライアントの言うメタファーが無機質なものでも、だいたいの場合、それは非常に有機的です。(これは、日本を思考の文化背景に持つ場合は多いです。)
それを、ただ、観る。
理科の観察のように。
自分の価値観、感情をはさまずに。
朝顔が目を出し、ツルを伸ばし、蕾をつけ、花開く、そこには、観察者の感情や理解は必要ありません。
観察者がどのような価値観を抱いていようとも、花の色はそこに影響を受けません。
メタファー・ランドスケープに介入しない、誘導しない、決めつけないというのは、あなたが紫の花が好きだからといって、朝顔の花の色が紫になるように何かをしないというのと同じです。
観察者がどのように理解しようが、それを見て何を感じようが、成長のための条件が整えば、朝顔は芽を出し、花開く。
このとき、朝顔はクライアントのメタファー・ランドスケープで、観察者は、クライアントとファシリテーターの2人です。
これを、トライアログ(三者対話)といいます。
クライアントと、メタファー・ランドスケープ、ファシリテーターの三者による対話です。
朝顔はツルを伸ばしたい。
けれど、ツルが伸びない。
ならば必要なものはなんだろう?
何がそこにないのだろう?
「あるべきなのに、そこに無いものは、何だろう?」こちらも、デイビッド・グローブの言葉です。
そして、それにつながりそうな、空間と時間に向けて、質問を問いかけます。
あなたが持つ、朝顔についての知識は、このとき、役に立つこともあるし、役に立たないこともあります。
その朝顔は、あなたが知る朝顔ではないから。
けれど、朝顔の観察日誌をつけたときにあなたが持っていた目、それは、あなたを助けます。
どうなるんだろうと、生まれて初めて、自分で朝顔を育てたときにあなたが抱いた好奇心、それも、あなたを助けます。
あなたが書いた観察日誌、それがセッション中に書くノートです。
この一連を、モデリングといいます。
シンボリック・モデリングのモデリング対象は、人間ではありません。
観察するのは、朝顔とその周辺、朝顔とクライアントの関係性、朝顔が育つ時間、朝顔が存在する空間です。
そして、「その仕組みをクライアント自身が理解して、自分で体系化する」のをサポートします。
つまり、「セルフ・モデリング」をサポートします。
なぜかというと、シンボリック・モデリングでモデリングするのに使うクリーンランゲージは「情報中心(インフォメーション・センター)」の技法だからです。
この話の聞き方は、対人支援の経験があっても、慣れていない人の方が多いと思います。
多くの技法は、クライアントセンター、または、パーソンセンターのはずだからです。
私自身は、ロジャーズの来談者中心療法が心の世界への入り口だったので、最初、自分の立ち位置の置き換えに少し時間がかかりました。
今はどちらの立ち位置も使います。
使い分けしています。
そして、この立ち位置の違いは、対人支援者がくたくたにならずに仕事を続けられる恩恵だと思います。
サポートされる側の人だって、誰かを疲れ果てさせたいとは望んでいないと思うのです。
なんとなく、とりとめなくこんな感じで、今日はここまで。